
(目次)
イスラム教の悪用
サダム・フセインは、自らの立場を有利にするため、イスラム教徒の連帯感を利用しようとしている。フセインは敬けんな信者を演じ、国際社会との争いにアラーの名を引き合いに出すことによって、彼はその抗争をイスラムの闘争とし、自分自身をイスラム教徒の旗手として位置付けようとしている。祈りを捧げるフセインの肖像や、フセインのイスラム教への献身を称賛するイメージが、国内各地の看板に描かれ、写真、出版物、ビデオで広められている。
1990年に行なわれたある分析調査では、次のような結論が述べられている。「近年、バース党員は、宗教を戦闘員動員の手段として利用することをためらわない。イランとの戦争の初期から、バース党幹部は、宗教式典への参加を公に誇示してきた。サダム・フセインが祈りを捧げる姿を描いたポスターは、国中に掲げられている。さらに、バース党は、重要なモスクの改装のために多額の資金を提供している」(注22)これは、サダム・フセインのバース党の非宗教的な原点からの離脱である。バース党は、イスラム教を、アラブ文化の産物であり汎アラブ主義への架け橋であると見ており、1990年までは、イラクはこの地域で唯一の公式な非宗教国だった。その後、サダム・フセインという人間がバース党の教義に取って代わったが、変わらない要素がひとつだけある。それは、イラクの政権および支配政党の主要幹部たちは依然として非宗教的であり、無信仰ですらあるという点である。
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| 2002年11月、祈りを捧げるサダム・フセインの壁画の前でタクシーを待つバグダッドの女性 (AP/Wide World) |
2002年11月8日、「CNNアメリカン・モーニング」のインタビューで、「恐怖の王―サダム・フセインの伝記」の著者で英国のデイリー・テレグラフ紙の編集者コン・コフリンは、次のように語っている。
「フセインは日和見主義者だ。彼は真に敬けんなイスラム教徒ではないが、都合のいいときには、イスラム教の指導者を演じる。CNNの特派員がバグダッドに行けば、いたる所で、建国者、将軍であるフセイン、そして宗教的指導者であるフセインの肖像が見られる」
イラク国内で消費財や多くの必需品が不足し、あるいは手に入らない状態を抱えながら、フセイン政権が1990年代半ば以降行なってきたぜいたくなモスク建設事業に関する報道の中で、ロサンゼルス・タイムズ紙は、バグダッド駐在の、あるヨーロッパ人外交官が匿名を条件に語った次のような言葉を引用した。
「国民の幸福は、この政権の優先事項ではない。政権が生き残ることだけを考えている。大規模なモスク建設計画は、以前は非宗教的、ほとんど無神論的な社会主義政権が、アラブ諸国というファミリーの中に再び深く入り込むために役立つかもしれない。しかし一方で、大多数の一般国民の窮状が、政府のプロパガンダという盾として使われるのだ」 (注23)聖地巡礼でのゆすり行為
フセインの宗教的レトリックと実践の二律背反を示すものとして、メッカ巡礼を望む信心深いイラク人に対する扱いほど明白なものはない。イラク政府は、メッカやメディナに巡礼しようとするイラク人イスラム教徒、およびイラク国内の各聖地を訪れるイラク人および非イラク人イスラム巡礼者による宗教的巡礼を妨害している。イラク政府は、政府に直接収入をもたらさない旅行計画はすべて拒否してきたのである。
1998年、国連制裁委員会は、メッカ巡礼者に交通費および経費のクーポン券を配布することを申し出たが、イラク政府はこれを拒否した。1999年には同委員会が、中立的な第3者を介してメッカ巡礼の関連費用を負担すると申し出たが、イラク政府はこれも拒否した。1999年12月に国連安保理決議1284が可決された後、制裁委員会は、巡礼者ひとりにつき現金250ドルと1750ドルのトラベラーズチェックを提供し、バグダッドの国連事務所で国連およびイラク政府当局者立ち会いの下でこれを配布することを提案した。しかし、イラク政府がこの提案をも拒否したため、イラクの巡礼者はこの提供資金も、許可された飛行機も利用できなかった。イラク政府はまた、自らの経済的利益のために、制裁を回避する手段として巡礼を利用しようとした。2001年に、イラク政府は、国連がメッカ巡礼者のために提供する資金を巡礼者に与える代わりに、政府が管理する中央銀行に預金し、支出を政府役人の管理下に置くことを、引き続き主張した。(注24)
イラク政府は、宗教巡礼者が費用を直接イラク中央銀行に支払うことを義務付けることによって、彼らから金を引き出すための、さまざまな画策を行ってきた。推定額には大きな幅があるが、サダム・フセインがこうした手段によって毎年数百万ドルの資金を得ていることは明白である。国際正義連盟は次のように記している。
「1999年、国連によるメッカ巡礼旅費援助計画を再び拒絶した後、イラク政府は、約1万8000人のイラク人巡礼者をバスでサウジアラビアとの国境まで連れて行き、そこで巡礼者たちにデモ行進をさせ、彼らの旅費のために、サウジアラビアがイラクの凍結資金を放出するよう要求させた。これに対し、サウジアラビアのファハド国王は、イラク人巡礼者を歓迎し、サウジアラビアが無料ですべての手配をすることを約束した。サウジアラビアが凍結資金その他の財源からイラク政府に支払いを行う見込みがなくなったため、フセインはイラク人巡礼者をバグダッドに連れ戻すよう命じた」
シーア派イスラム教徒の弾圧
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| サダム・フセインが、イスラム教徒として敬けんな行為を行っている様子を描いた肖像が、イラク国内および他のイスラム国家に広く流布されている(Reuters) |
サダム・フセイン政権のイスラム教への献身が偽善的な行為であることは、同政権が長年にわたり、イラクのイスラム教多数派であるシーア派を弾圧してきたことに表れている。シーア派イスラム教徒への制限・禁止事項には、次のようなものがある。金曜日の共同祈とうの制限または完全禁止、シーア派モスク図書室の書籍貸し出し禁止、国営ラジオ局またはテレビ局によるシーア派番組の放送禁止、祈とう書や説明書を含むシーア派の書籍の発行・販売禁止、政府が計画したものを除く多くの葬列および他の葬儀に関わる儀式の禁止、そしてシーア派の聖なる日を記念する特定の行進や集会の禁止。シーア派グループは、1991年のシーア派反乱の際に、発禁処分となったシーア派宗教書数千点を列挙した治安機関の文書を入手した、と報告している。(注25)
湾岸戦争:中東における非イスラム教軍隊に関する嘘
湾岸戦争中、フセインは、非イスラム教徒の軍隊がイスラム教国イラクと戦っているという事実を利用した。これは、この戦争をイスラムに対する戦争として位置付けるためだった。イラクは、イスラム教ゆかりの土地が攻撃を受けたと主張し、欧米諸国の道徳観やイスラム教に対する態度についてイスラム教徒が持つ不信感に訴えかけることで、多国籍軍が聖地を冒とくし、サウジアラビアに不道徳をもたらしたと主張した。
多国籍軍を結成するに当たり、ジョージ・H・W・ブッシュ元大統領は、イラクによるクウェート侵攻の不道徳性と非合法性を指摘し、クウェート国民の解放を要求した。国連安保理は、クウェート解放を目的とした軍事力行使を認める決議を可決した。イラクは、多国籍軍の米国人および他の西側諸国の兵士がクウェートの解放者であるという概念を弱めようとし、アラブの地に武装した部外者が入ることに対する不安を利用しようとした。こうした目的を達成するため、イラク政府は、欧米諸国の軍隊が一般のイスラム教徒や重要な国家的シンボルに対して犯罪を犯したとの報告書をねつ造した。アラブあるいはイスラム世界で反戦の声が高まっているという印象をさらに強めるために、多国籍軍に反対する抗議活動に参加していた人々が殺傷されたと主張する報告書もあった。例えば、以下のような主張があった。
- 多国籍軍がメッカとメディナを占領した。
(ラジオ・モンテカルロで傍受されたサダム・フセインの声明)
⇒多国籍軍によるこうした軍事行動の事実はない。
- 「NATO情報筋が漏らした情報によると、米国軍の一部で秘密作戦に関する話し合いがあった。それは、イラク攻撃の口実に利用するため、イラクのマークを付けたロケットで、メッカのアル・カーバ神殿を攻撃するという計画であった」
(1990年12月31日付「アンナハール」紙 =イスラエルの親ヨルダン系新聞)
⇒これに該当する計画はなかった。
- 米国の人気スター、マドンナがサウジアラビアで米国軍を慰問した。
( 1991年1月27日付「インキラブ」紙=パキスタン)
⇒マドンナはサウジアラビアに行ったことはない。
- 米国人の40%は、エイズに感染しており、それを広めるためにサウジアラビアに行こうとしている。
( バグダッド・テレビジョン、1990年8月末)
⇒事実ではない。
- 米国海軍の奇襲部隊がアラビア海でバングラデシュの商船を乗っ取った。
(1991年1月1日付「サングバッド」紙 [バングラデシュ])
⇒事実ではない。
- 米国情報機関が、サウジアラビア皇太子の暗殺を計画した。
(ラジオ・バグダッド、1991年1月15日)
⇒事実ではない。
湾岸戦争:イスラム教徒と西側同盟国の衝突に関する嘘
「砂漠の嵐」作戦の多国籍軍は、西側諸国と非西側諸国との広範な同盟であり、多数のイスラム国家が多国籍軍に参加したため、イラク政府は、この争いをイスラムと無信仰者との間の争いであると位置付ける機会を奪われた。イラクは、アラブおよびイスラム諸国の間で多国籍軍への敵対心を高めるため、工作活動と国営メディアを利用して、西側の軍人とイスラム教徒の軍人の間に摩擦あるいは公然たる対立があるという話をねつ造した。これらの作り話には、イスラム国家の軍人が、西側の軍人によって侮辱される、あるいは殺されるが死ぬ前に、彼らを苦しめたと言われる軍人の数人を何とか殺す、という内容のものが多い。こうした話はいずれも事実ではない。作り話の具体例を以下に挙げる。
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「バングラデシュ兵士がイラク攻撃への参加を拒んだことを理由に、米国軍および英国軍の兵士がサウジアラビアでバングラデシュ兵士を銃撃した。その結果、数百人のバングラデシュ兵士が殺害された……」
(バングラデシュで配布されたパンフレット、1991年1月28日)
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米国軍がサウジアラビアでモロッコ軍を銃撃し、数人が殺害された。
(ラジオ・バグダッド、1991年1月31日)
- 米国は輸出禁止措置に違反してイラクからの石油輸入を続けていたにもかかわらず、同盟国にはそれを否定していた。 (イラク石油省、1990年8月17日)


駐日米国大使 
