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欺まんの構造

目次

作り出される悲劇

 「文民たる住民又は個々の文民の所在又は移動は、ある種の地点又は地域が軍事行動から免れるため、特に、軍事目標を攻撃から掩護し又は軍事行動を掩護し、有利にし若しくは妨げるために利用してはならない。紛争当時国は、軍事目標を攻撃から掩護し、又は軍事行動を掩護するために文民たる住民又は個々の文民の移動を命じてはならない」

− 1949年ジュネーブ条約議定書第51条(訳=有斐閣『国際条約集1992』、p.505)

 サダム・フセインの過去の行動に照らし、もしイラクとの戦争が始まれば、彼が世界のメディアに対し「欺瞞のわな」を仕掛けることはほぼ確実である。明らかにフセインは、イラクに対する軍事行動への反感を誘発させる最も強力な武器はイラク国民の死であると信じている。

 「砂漠の嵐作戦」の期間中、連合軍は慎重に標的を選び、罪のない民間人に対する爆撃を回避するための厳しい交戦規則を自らに課していた。しかしながら、標的の慎重な設定、厳しい発射規則、そして精密(誘導)兵器の使用にもかかわらず、ある程度の民間人の死傷者が出た。フセインは、米国主導の連合軍に対する国内外の支持を弱めるために罪のない人々の死を利用し、連合軍が民間人を標的とし無辜の命を奪ったとの主張を幾度も繰り返した。

Mosque collocated with ammunition depot in Iraq, October, 2002

 イラク政府によるプロパガンダ作戦は、通常予想される民間人の犠牲に対する抗議をはるかに超えるものであった。イラクは、戦車、ミサイル、指揮・統制施設などの軍事施設を民間人や民間施設の近くに置くことが、それら軍事施設を攻撃から守るために大いに役立つことを直ちに悟った。フセインは、民間人や民間施設を盾に軍事施設を防御すれば、連合軍は民間人の近くにある標的への攻撃を回避するか、さもなければ純然たる軍事施設と思われた場所で意図に反し民間人の犠牲を出すことで、連合軍が大きな政治的打撃を受ける危険があると考えた。

 こうした民間人・施設を利用する戦略には、次の3つの目的がある。

 イラク政府によるこうした民間人利用作戦のいくつかは、衛星画像で明らかにされた。しかしながら、探知できなかったものには悲劇的な結果がもたらされ、活発なプロパガンダの口実にされた。これは、長年にわたりイラクが取ってきた方法である。イラク政府は国中で、軍事施設を民間施設や史跡の近くに配置し続け、軍事区域内あるいはその近辺にモスクなどの民間施設を建設している=写真上

過去の民間人・施設の利用

 CNNのピーター・アーネット記者は、湾岸戦争中、他の記者と共に宿泊していたアルラシド・ホテルの前庭に、ある晩スカッド・ミサイルと発射台が現れたと書いている(注2)。

 海外のメディアは、イラクが1990年に、子どもを含めた1000人以上の欧米人・日本人を、国内約70カ所の空軍基地、駐屯地、兵器工場、発電所等に人質として拘束したことを大きく報道した。その後イラクは、国際社会からの圧力を受け人質を解放した。

 湾岸戦争中イラク政府は、タリルに近い古代ウルのジグラットの近くに軍用機2機を配備した=写真下。連合軍がこの軍用機を爆撃していたら、古代メソポタミアの文化財に多大な損害が及んでいた。

 連合軍の指導者が宗教施設を標的としないことを発表すると、フセインは、軍事設備機器や部隊を防衛するため、これらの民間施設を利用するようになった。また、軍民両用施設がプロパガンダに利用された。

Military aircraft dispersed during Operation Desert Storm to historical site near Tallil, Iraq

 1991年1月21日、連合軍の爆撃機が、バグダッドでイラク側が「ベビーミルク」工場であると主張する建物を爆撃した。米国は、この建物が生物兵器開発施設であると主張した。この建物は、イラク政府が生物兵器開発工場として利用する以前は、1979年から1980年にかけてと1990年の春から夏にかけての短期間、「ベビーミルク」工場として機能していたようである。

 米国政府当局者が当時指摘したように、イラク政府はこの工場を軍事施設を防護するのと同様の方法で防御していた。湾岸戦争後、国連特別委員会(UNSCOM)の査察官は、イラク政府の主要な生物兵器施設に所属する科学者3人が、この「ベビーミルク」工場で勤務していたことを明らかにした。

1991年、「ベビーミルク」工場に連れて行かれたジャーナリストが目にしたのは、英語とアラビア語で手書きされた看板だった
1991年、「ベビーミルク」工場に連れて行かれたジャーナリストが目にしたのは、英語とアラビア語で手書きされた看板だった

現在の民間人・施設の利用

 湾岸戦争以降、イラク政府は、公園、モスク、病院、ホテル、商業地区、古代文化遺跡、宗教施設、さらには墓地を含む数々の民間施設およびその周辺に、防空ミサイルや関連設備機器を配備してきた。また、実際に使用されているサッカー場の隣にロケット発射装置を設置したり、民間の工業地域に使用可能な地対空ミサイルシステムを配置している。

 1997年末、イラク政府は、世界のメディアに、女性や子どもを含むイラクの民間人が軍事および工業施設にいる様子を撮影させた。米国政府が後に得た情報によると、イラク政府はその後、これら民間人をひそかに受刑者と入れ替えた。受刑者のほとんどは反政府主義者であったが、中には犯罪者も含まれていた。イラク政府は、これらの施設が攻撃された場合には、殺されたのは受刑者ではなく当初そこにいた民間人であると主張するつもりであった。

 2002年4月、商業衛星からの画像により、イラク政府がバグダッドから南東へ31マイル離れたサリバディの町にある学校の付近15カ所に軍事用防護壁を建設したことが明らかになった。防壁は、基本的には、軍用車を空襲から防護するために入れる穴であるが、そのいくつかは学校周囲の塀から11ヤードも離れていない。

サリバディの民間人地区にある軍事用防護壁(矢印)=2002年4月撮影
サリバディの民間人地区にある軍事用防護壁(矢印)=2002年4月撮影

 米国政府は2002年、イラク政府がタクシーやバスを軍用車に見せかけるため色を塗り替えるよう命じたとの情報を得た。

 2003年1月8日のAP通信などの報道によると、イラクのタリク・アジズ副首相は、外国人ボランティアがイラクに来て、武力衝突の際に民間施設で人間の盾となることを歓迎すると述べ、民間施設が攻撃対象となるとの考えを植え付けた。イラクは、1990年にも同様の発言をしている。そのような人間の盾は、武力衝突の際には軍事目標の周辺に配置される可能性が最も高い。これは、そうした標的に対する攻撃を阻止するため、あるいは攻撃による犠牲者を出させるためである。


ケーススタディー

アミリヤ避難壕

 1991年2月13日早朝、連合軍の精密誘導爆弾が、バグダッドのアミリヤ避難壕に命中した。テレビ局は、建物から黒焦げの遺体が運び出される悲惨な映像を放映した。イラク側は、主に女性と子どもを中心とする300名以上が死亡したと報告した。

 この避難壕は、イラン・イラク戦争中に防空壕として建設されたもので、後に軍の指揮・統制センターに転用された。1991年には、軍事通信基地として使われ、有刺鉄線が張られ、偽装工作が施され、武装護衛兵が配置されていた。情報機関の報告によると、イラク軍高官がこの施設を軍事通信に使用していた(注3)。

 イラクは、民間の防空壕が意図的に爆撃されたと主張した。連合軍が知らなかったのは、イラク軍が建物の下階を引き続き指揮・統制センターとして使用する一方で、夜間に民間人を建物上階に招じ入れていたことである。フィンランドのヘルシンギン・サノマット紙の1991年2月14日付記事の中でフィンランドの専門家は、イラクにあるアミリヤ壕のような建造物は、2階建構造で計1500人を収容できると述べている。フィンランドのペルシティマ社とスウェーデンのABV社が、このような構造の建物をバグダッド市内に30棟建設した。

 イラクのキディル・ハムザ元核兵器計画担当長官は、著書「サダムの爆弾製造者」の中で、湾岸戦争中の状況について次のように述べている。

 「われわれは何度か(アミリヤ)壕に避難した。しかし、防空壕はいつも満員だった。壕の中には、テレビ、飲料水、自家発電機があり、通常兵器の攻撃に耐える強度を備えているように見えた。しかしある晩、私は何台かの大型の黒いリムジンが、裏手にある地下ゲートを出入りするのを見て、壕に入るのをやめた。調べた結果、そこが司令部であることがわかった。熟考した後、私はそこがおそらくフセイン自身の作戦基地であるとの結論に達した」(注4

 米国政府はまもなく、フセインが、以後イラクにあるすべての軍事用避難壕に民間人を居住させるよう命じたとの情報を得た(注5)。

アミリヤ避難壕を見学する人々。イラク政府はこの避難壕を国民の記念物として保存した

アミリヤ避難壕を見学する人々。イラク政府はこの避難壕を国民の記念物として保存した

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