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死者に代わって語る オーマ事件の記憶
1998年8月15日の土曜日に、北アイルランドのオーマの町で大規模な爆破テロを実行した冷酷な男たちは、世をすねた殺人者だったかもしれないが、同時に不器用で混乱した男たちでもあったのだろうか。 報道によると、その日午後2時30分、アルスター・テレビ局に、オーマの裁判所庁舎を爆破するとの脅迫電話が入った。警察と治安部隊は、人々を裁判所周辺から、町の反対側のマーケット・ストリートにあるにぎやかなショッピング街に避難させた。 しかし、500ポンドの爆弾が仕掛けられていたのは裁判所からは程遠い場所だった。爆弾は、週末の外出や新学年に備えて買物に出かけた家族連れでにぎわう通りに止められた自動車の中に仕掛けられていた。脅迫電話は、結果的に人々を爆弾の近くに移動させ、死傷者数を大幅に増やしたのだった。 爆弾の場所について、脅迫電話が間違った情報を伝えたのは、意図的だったかもしれないし、間違いだったのかもしれない。それは、もはや重要なことではない。重要なのは、その爆弾が午後3時10分に爆発し、子ども9人、女性15人、男性5人の計29人が虐殺されたという事実である。女性の1人は妊娠7カ月で、双子を宿していた。その双子も死亡した。 250人以上が負傷し、その多くは子どもたちだった。負傷者の多くは重傷だった。北アイルランドにおける宗派対立の暴力の歴史の中でも最も多くの死者を出したこのテロ事件は、カトリックとプロテスタントの町を文字通り引き裂き、精神的にも大きな傷を残した。
2002年1月22日、オーマ事件の容疑者1人が、テロ計画に加担したとして、共同謀議で有罪判決を受けた。当局は引き続き、他の容疑者を捜している。彼らはいずれも、アイルランド共和国軍(IRA)の分派「真のIRA」のメンバーであると見られている。 犯人たちが爆弾の専門家だったかどうかは不明であるが、明確な政治目的の達成という点で無能なテロリストだったことは確実である。オーマの爆破テロは、そのすさまじい殺りくと残虐性によって、本来の意図とは全く逆の効果を上げ、紛争のあらゆる当事者に激しい怒りと拒絶反応を起こさせただけだった。そして、オーマの死と破壊は、北アイルランドにおける政治的プロセスと暴力否定に新たな勢いをもたらした。そのプロセスは、欠点もあり不安定でもあるが、今日に至るまで継続している。 犠牲者の言葉 市場の町オーマには、週末になると、北アイルランドだけでなく近隣のアイルランド共和国の農村地帯や村から家族連れや買物客が集まってくる。1998年のその土曜日、オーマのショッピング街は、新学年の始まりを控えて服や学用品を買ったり、ちょうど町で開かれていたカーニバルを楽しむ家族連れで、ひときわ混雑していた。
オーマの犠牲者について語ることは、時を超えた恐怖の一塊を切り取って冷凍保存するようなものである。 自動車教習所教官のフランク・パンコットは、ロンドンの「ガーディアン」紙に、爆発直後の光景についてこう語った。「犠牲者の死体はばらばらになっていた。2歳の子どもの体から煙が立ち昇っているのが見えた。道路に倒れている男性の脇に、彼の片脚が転がっていた」 アイルランド共和国のバンクラナから来たオラン・ドアティ(8)、ジェームズ・バーカー(12)、ショーン・マクラフリン(12)の3少年は友人同士だった。3人は一緒に死に、一緒に埋葬された。
ジェームズの父親、ビクター・バーカーは、2001年に「ガーディアン」紙のインタビューで、こう述べた。「私もできることなら先に進みたい。しかし、ジェームズは今でも私の一部なのだ。踏ん切りをつけるという問題ではない。私は、息子を日曜版の第1面の写真にすぎない存在としてしまうことはできない。『テロリストが事件を起こしてしまった。しかたのないこととして忘れよう』とはとても考えられない」。母親のドナ・マリーは、「インディペンデント」紙のインタビューで、最後に見た息子の姿を回想し、「息子は興奮のあまり、行ってきますとも言わずに車から飛び出していきました。でも、1度振り返って、微笑んでくれたわ。笑顔の美しい子でした」と語った。 共に死んだ家族や友人たち オーマの爆破事件で3世代が死亡した家族もあった。生後18カ月のモーラ・モナハン、その母で事件当時双子を妊娠中だったアブリル・モナハン(30)、そしてモーラの祖母で元産科看護師のメアリー・グライムズ(65)である。3人は、メアリーの誕生日を祝うためにオーマに来ていた。 生後20カ月のブリーダ・ディバインは、ベビーカーに座ったまま死亡した。母親は重いやけどを負った。 当時16歳だったクレア・ギャラガーは、飛んできた金属片で顔を直撃された。何カ月にもわたる手術を受けた後、彼女は2度と視力が戻らないことを告げられた。音楽の才能がありピアノの上手なクレアは、今では新しい曲を耳で覚え、いつの日か音楽教師になりたいと願っている。
ケイン・ウェブ・サービスによると、サマンサ・マクファーランド(17)は、友人のロレイン・ウィルソン(15)とともに、救援組織オクスファムがオーマで運営するチャリティ・ショップで働いていたが、爆弾の脅迫電話で避難させられ、一緒に建物を出た。2人の少女は、ショッピング街へ、そして爆弾の爆心地へと歩いていった。 年若い犠牲者は、アイルランド人の子どもたちだけではなかった。ロシオ・アバド・ラモス(23)とフェルナンド・バセルガ・ブラスコ(11)の2人は、スペインから教育交流グループに参加してバンクラナを訪れ、バスでオーマのカーニバルに来ていた。このスペイン人グループでは、ほかにも10人が負傷し、フェルナンドの姉妹ルクレシアも顔に重傷を負い、形成外科手術を受けなければならなかった。 フェルナンドとルクレシアの父親マニュエル・バセルガがテロリズムに直面するのは、これが初めてではなかった。「ベルファスト・ニュース・レター」紙によると、バセルガは1992年、マドリードで車を運転中、バスク地方の分離独立を求めるETAが仕掛けた自動車爆弾の破片で負傷した。 バンクラナとスペインの交流プログラムには長い歴史がある。ある教会関係者は、「この教区の多くの人たちにとって、彼らは他人ではなく、第2の家族のようなものだ」と語った。
愛を込めた追悼 ケビンとフィロミーナのスケルトン夫妻は、娘たちが学校の制服を試着している間、お互いに数フィートしか離れていない所に立っていた。ケビンはほとんどかすり傷も負わなかった。3女1男の母、フィロミーナ(39)は即死した。 ロンドンの「サンデー・テレグラフ」紙によると、フィロミーナの墓には、次のような愛情あふれる、かつ率直な墓碑銘が刻まれている。「愛する妻であり母だったミーナ・スケルトンに愛を込めて追悼を捧げる。1998年8月15日、オーマ爆破事件により39歳で死亡。ミーナは殺された。自分たちの行動の結果を気にかけない人々によって」
妻の死後もケビン・スケルトンは、ルーマニア人の孤児アンドレア・コザックを毎年自宅に受け入れている。アンドレアが初めてドラムキンのスケルトン家を訪問したのは1997年のことだった。ケビンはこう語っている。「アンドレアがまたわが家に来られるようにすることで、私にはすることができた。元気を出させてくれる、考える対象ができた。それが私と子どもたちに元気を出させてくれたことは確実だ」 現在ケビンは、アンドレアと、その姉妹でアイルランドの別の家庭に何度か夏期滞在していたニコレットの2人を、養子にすることを計画している。「これは、私たち全員が望んでいることであり、フィロミーナも必ず望むはずだ」
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駐日米国大使




