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*下記の日本語文書は参考のための仮翻訳で、正文は英文です。

2006年国別人権報告書(抜粋)

米国国務省民主主義・人権・労働局発表

2007年3月6日

前書き
序文
日本

前書き

 世界中で、人々は、個人的・政治的自由の拡大と民主主義制度の採用を求めて活動している。そして、ブッシュ大統領の言うところの「妥協の余地のない、人間の尊厳の要求」を確保しようと努力している。

 勇気ある個人や非政府団体は、自らへの危険や多大な困難があるにもかかわらず、人権侵害の事例を公表している。彼らは、民族的・宗教的少数派、労働者、そして女性の権利を保護し、人身売買を阻止しようとしている。また、活気ある市民社会を築き、自由で公正な選挙を保証し、説明責任のある、法に基づく民主主義国家を確立しようと努めている。

 このような、待っているだけでなく行動する愛国者たちによって、これまで不可能と考えられてきたことも可能になっている。事実、わずか数世代の間に、自由が開発途上国に広がり、共産主義の独裁政権が倒れ、新たな民主主義国家が出現した。世界人権宣言に記された権利が、これほど十分に、これほど多くの国によって保護されたことは、かつてなかった。

 この崇高な努力は現在も続いている。しかし、まだ完了しておらず、強硬な敵と対峙(たいじ)している。当然のことながら、民主的な変革に脅威を感じる人々は、改革を主張し、その実現に向け行動する人々に抵抗する。この1年間に、人権擁護活動家や市民団体に対する嫌がらせや脅迫、そして彼らの活動を制限し停止させようとするさまざまな試みが見受けられた。不当な法律が、自立した意見を持つ人々を攻撃する政治的な武器として使われてきた。また、超法規的な手段によって反対意見を封じ込めようとする動きもあった。

 非政府組織およびその他の人権擁護活動家が包囲された状況にあるときにはいつも、自由と民主主義が損なわれる。従って、世界の民主主義国家は、人権擁護活動家を保護しなければならない。これが、今日のわが国の外交に課された主要な使命のひとつであり、米国国務省の「2006年国別人権報告書」が、この活動をさらに促す一助となることを願っている。こうした考えをもって、私はここに本報告書を米国連邦議会に提出する。

国務長官
コンドリーザ・ライス


序文

 以下の報告書は、各国政府が人権問題に関して国際的な確約をどのように果たしたかという実績を述べたものである。これらの基本的な権利は、世界人権宣言に表されているものであり、ブッシュ大統領の言う「妥協の余地のない、人間の尊厳の要求」である。ライス国務長官が述べているように、世界人権宣言の約束は一夜にしてすべて実現できるものではないが、遅らせることができない、急を要する仕事である。

 世界人権宣言は、「社会の各個人および各機関が(中略)これらの権利と自由との尊重を促進すること、ならびにそれらの普遍的かつ効果的な承認と順守とを国内的および国際的な漸進的措置によって確保すること(後略)」を要請している。

 米国は、人権に関する自らの確約を重く受け止めている。われわれは、わが国自身の実績、および米国がテロ攻撃への対応として取ってきた措置が疑問視されているときに、この報告書を作成していることを認識している。他国からの善意の懸念に対しては、米国が当事国となっている各種の人権条約に基づく義務に従って定期的に報告書を提出するなどして、引き続き率直に対応していく。またわが国は、継続的な改善にも尽力している。テロ容疑者の拘留、待遇、裁判に関する米国の法律、政策、および慣行は、この5年間に大きく変化した。米国の民主的統治制度は完璧ではないが、説明責任を負っている。わが国の活気ある市民社会、活発で自由なマスコミ、独立した政府の各部門、そして確立した法の支配が、誤りを正す役割を果たしている。

 連邦議会により義務付けられた、以下の年次国別人権報告書は、世界各地で人権尊重を促進する米国の活動の不可欠な要素となっている。国別報告書は、30年間にわたって、人権問題に関する前進と、今も残る課題を評価するための参考文書として、米国内外で広く用いられてきた。また、人権侵害を阻止すること、そして国家がすべての人々の基本的権利を守る能力を強化することを目指す、政府、組織、および個人の協力活動の基盤にもなってきた。

 この報告書は、2006年における各国の実績を見直すものである。各国の報告書は、それぞれの状況を明確に説明している。しかし、一般的な傾向も見られるので、以下にそうした動向について記述し、その根拠となる特定の国の例を挙げる。各例は、具体的であるが、網羅的なものではない。

将来に希望が見える動きもあるが、現実はまだ厳しい

 この報告書が示すように、2006年も、世界各地の人々は引き続き、自らの権利が尊重され、政府が迅速に反応すること、自らの意見を聞いてもらい、自分が投じた1票が意味を持つこと、そして公正な法律とすべての人々の正義を実現することを要求した。また、民主主義が、尊厳・自由・平等を求める市民の要求に最もよく応えることのできる統治形態であるとの認識が広まっている。これらは確かに将来に希望が見える動きだが、この報告書は、厳しい現実も映し出している。

 第1に、人権と民主主義に関する前進は、苦労してやっと勝ち取ったものであり、これを維持するには多大な努力を要する。大きな進歩を遂げた国もあれば、遅れている国や後退した国もある。

 以下のさまざまな事例が示すように、政府の意欲の度合い、制度的な能力、汚職の程度、そして市民社会の強さといった要因によって、各国の実績には大きな差が見られた。

 リベリアでは、14年間に及ぶ破壊的な内戦が2003年に終結して以来、リベリア国民暫定政府が暫定統治を行ってきたが、2006年1月、アフリカ初の女性元首エレン・ジョンソン・サーリーフの率いる、民主的に選出された統一党政権が発足した。同政府は、他国と協力して国の司法部門を立て直し、首都に公選弁護人の事務所を設立するなど、人権に関するそれまでの欠陥を是正する重要な措置を取った。サーリーフ大統領は、汚職に関与していた多くの政府高官を解雇あるいは停職処分とした。内戦中に発生した人権侵害や戦争犯罪を調査するため2005年に設置された真実和解委員会が、証人からの証言を集める作業を開始した。こうした前進はあったが、いまだに脆弱な司法制度、公務員の汚職と刑事免責、性別に基づく暴力、そして児童労働につながる極貧といった深刻な人権問題に依然として直面している。

 インドネシアでは、2006年に、政治的に慎重を期する地域における軍隊や警察による殺害件数が、引き続き大幅に減少した。州・県・地域・市の各レベルで、おおむね自由で公正な選挙が合わせて54回実施され、中でも12月にアチェで行われた選挙では、元反政府軍の野戦指揮官が州知事に当選した。対立する宗教間の武力衝突は概して減少したが、一部地域では続いた。インドネシアでも東ティモールでも、政府および裁判所が、過去の人権侵害や残虐行為に対処することはできなかった。

 モロッコの人権実績は、注目に値する前進を遂げたが、まだ問題は残っている。政府は、1956年から1999年までの間に起きた特定の逮捕・失跡・虐待事件に対して、人権諮問委員会を通じて補償を提供することによって、過去の人権侵害に対処し始めた。3月に拷問禁止法を制定したが、治安部隊の各部門による拷問の報告が続いている。報道と言論の自由に対する制限が継続したにもかかわらず、公の場および報道において、広範囲にわたる、かなり開かれた討論が行われた。2006年に、政府は、言論の自由の制限に違反した数人のジャーナリストを処罰し、多くのジャーナリストは自己検閲を行った。人身売買(特に性的搾取を目的とする人身売買)、および児童労働の問題が引き続き懸念されるが、これらの問題については、政府も市民社会も、ますます積極的に取り組んだ。

 コンゴ民主共和国は、45年ぶりに民主的な大統領選挙と議会選挙を実施して、内戦終結後3年間に及んだ移行期間に終止符を打った。また、新憲法が発効した。しかしながら、人権に関する実績は引き続き良くない。東部では、政府の支配が依然として弱く、武装集団が深刻な人権侵害行為を続けており、紛争が一触即発の状態にある。加えて、全国各地に展開する政府の治安部隊がひどい人権侵害行為を行ったが、処罰はされなかった。

 ハイチでは、2006年に行われた3回の選挙で投票することによって、市民は民主主義の実現に対する決意を示した。350万人以上の市民が選挙登録をし、2月に行われた第1回大統領選挙および議会選挙では、投票率が推計で登録有権者の70%以上と、素晴しい結果を残した。比較的安定した、暴力のない選挙プロセスにより、有権者は大統領としてルネ・プレバルを選び、129人の議員を選出した。12月には、10年以上ぶりに地方議会選挙が行われた。しかし、機能不全に陥っている司法制度の改革と、国家警察の再訓練と調査の継続など、法の支配を完全に回復するために成すべきことはまだ多く残っている。

 ウクライナでは、「オレンジ革命」後に人権実績が著しく改善しており、2006年もこの傾向が継続した。2006年3月の議会選挙は、独立後の15年間で最も自由なものであった。また、報道の自由、結社の自由、市民社会の発展で、引き続き改善が見られた。こうした進歩はあったが、政府のあらゆる部門における汚職をはじめ多くの深刻な問題が残った。

 キルギスでは、2005年に民主的に選出された政権に代わってから、人権実績がかなり改善されていたが、2006年には、1週間に及ぶ平和的な集団抗議活動の結果、真の抑制と均衡を可能にする修正憲法が急いで採択された。しかしながら、議会は12月末に、多くの主要な抑制と均衡手段を無効にするような別の憲法を可決した。また、政府は、外国から資金を受けた非政府組織(NGO)に嫌がらせをした。

 パキスタンでは、ムシャラフ大統領が、民主主義への移行と「啓蒙(けいもう)的穏健主義」を確約したにもかかわらず、人権実績は引き続き良くなかった。移動、表現、結社および信教の自由に対する制限が続いた。また、特に紛争や反乱の起きている州では、地元の活動家や政敵の失跡が続いた。治安部隊は、裁判なしの処刑を続けた。恣意(しい)的な逮捕や拷問が引き続き広く行われた。政府や警察組織全体にわたって汚職が横行した。プラスの側面として、12月に、国民議会が女性保護法案を可決し、ムシャラフ大統領がこれに署名して、パキスタン政府が30年ぶりに、女性の権利に不利な法律を撃退した。この女性保護法は、強姦を、パキスタンのイスラム法ではなくパキスタン刑法の適用対象とすることによって、1979 年のフドゥード法の強姦と姦通に関する規定を修正するものである。また、強姦の被害者が告発をするには、男性の証人が4人必要であるとする要件を廃止している。

 エジプトは2005年に、同国初の複数政党制大統領選挙を実施したが、2006年には、さらなる民主化と説明責任の強化を求める一般市民の要求が、時に政府の強い反発を買った。元大統領候補のアイマン・ヌールが引き続き投獄されていることから、エジプトの政治改革と民主主義の行方に深刻な懸念が生じた。2005年に始まった動きの延長として、政府は、非合法だが活動は黙認されているイスラム同胞団とつながりのある数百人の活動家を逮捕し、おおむね数週間にわたって拘留した。2月には、2人の上級判事が、司法権の独立を公に要求したために連行され尋問を受けた。エジプト警察は、司法権の独立を支持するデモに参加したことを理由に、500人以上の活動家を逮捕・拘留した。さらに、当局による厳しい拷問が立証された事例もある。政府は、数人のインターネット・ブロッガーも逮捕し、拘留し、虐待した。

 カザフスタンでは、政府が、煩雑な選挙登録要件を実施したり、政党の登録を妨げる、あるいは拒否することによって、政治的敵対勢力の機能を制限した。親政府系政党の合併によって、ナゼルバエフ大統領のオタン党の確固たる指導力がさらに強化され、異なる意見を表明し改革を支持する政治的な自由が減少した。政府は、政治的な動機に基づく告発や集会の自由の制限によって政治的敵対勢力を攻撃し、報道の自由を制限する法律を可決し、NGOに嫌がらせをした。

 ロシアでは、選挙法の改正、そして政党を規制、調査、制約し、時には廃党する、広範囲にわたる権限を政府に与える新たな法律の制定など、行政府への権力の集中が続いた。こうした傾向は、迎合的な国家会議、選択的な法執行と法執行面での汚職、司法に対する政治的圧力、NGOとメディアに対する制約と相まって、政府の説明責任をさらに損なう結果となった。チェチェンおよびその他のロシア北コーカサス地域では、連邦軍とチェチェン共和国治安部隊による、民間人の違法な殺害や虐待など、深刻な人権侵害行為が継続した。この地域では、反政府武装集団によるテロ爆破や政治的動機に基づいた失跡もあった。ヨーロッパ人権裁判所が、こうした人権侵害行為にロシアが関与しているという判決を下す事例が増えた。

 ベネズエラでは、チャベス政権が行政府の権限強化を続けた。政府は引き続き、反対勢力やNGOに嫌がらせをし、司法の独立性を弱めた。チャベス大統領が63%の得票率で再選された12月の大統領選挙については、国際監視員がおおむね自由かつ公正に行われたと判断した。大統領は就任演説で、自らの党が100%の議席を有する国民議会に対し、行政命令による統治の権限を大統領に与えるよう要請した。 

 フィジータイでは、軍隊が、民主的に選出された政府を倒した。

 第2の厳しい現実は、国内あるいは国境を越えた紛争から生じた不安定な状況によって、人権および民主的統治に関する前進が脅かされたり、挫折させられたりすることがありうる、という点である。

 イラク政府は、国内の和解と復興の促進、選挙プロセスの維持、および法の支配の確立に引き続き取り組んでいるが、2006年には、宗派間の武力衝突とテロ行為の激化により、人権と民主主義の前進が著しく阻まれた。イラクの憲法と法律は、人権保護の強力な枠組みを提供しているが、2つの方面から武装集団による人権侵害が行われた。ひとつは、アルカイダのテロリスト、和解を拒むバース党政権の残党、そしてゲリラ戦に従事している反乱分子など政府に敵意を持つ人々によるもの、もうひとつは、名目上は政府と連合しているシーア派民兵および各省の治安部隊による拷問や虐待である。

 アフガニスタンは、2001年のタリバン政権崩壊以降、人権に関して大きな前進を見せているが、同国の人権実績は引き続き良くない。主な要因は、中央政府が脆弱(ぜいじゃく)であること、および破壊的な反政府運動が行われたことである。タリバン、アルカイダ、その他の過激派グループが、政府関係者、治安部隊、NGOや援助関係者および非武装の民間人に対する襲撃を激化させた。また、自爆テロおよび学校や教師に対する攻撃の件数も2006年に大きく増加した。恣意的な逮捕や拘留、裁判なしの処刑、拷問、刑務所の劣悪な環境などの事例が引き続き報告された。12月にカルザイ大統領は、過去の人権侵害に対処し、司法制度の制度的能力を向上させるための暫定司法行動計画に着手した。

 レバノンでは、2005年にラフィク・ハリリ元首相暗殺事件が発生し、続いてシリア軍が30年近い占領の末撤退した後、改革に向け大きな前進が見られた。しかし、2006年7月から8月にかけてのヒズボラとイスラエルの武力衝突以降は、改革が足踏み状態にある。この衝突以前に、レバノン政府は、政治結社や政党の設立を阻んでいた障害の多くを除去し始めていた。ヒズボラがレバノン領土からイスラエルに入り、イスラエル兵士数人を誘拐・殺害したことに反応して、イスラエル軍はレバノン領土に侵攻した。この戦闘は、国連の停戦決議に基づき終結した。停戦と、南部におけるレバノン軍および国連暫定軍の展開にもかかわらず、国内各地でレバノンの民兵およびヒズボラが大きな影響力を維持した。

 東ティモールでは、国軍と、さまざまな反体制派の軍隊・警察・民間人部隊とが激しい衝突を繰り返した結果、首都で暴動や犯罪組織による暴力が広がった。政府の要請により、オーストラリア、ニュージーランド、マレーシア、ポルトガルの軍隊が、首都の治安維持に当たった。8月25日に、国連東ティモール統合支援団が警備業務を引き継いだ。この衝突により、人口の15%以上に相当する約15万人が難民となった。

 第3に、世界のあらゆる地域で人権と民主主義の原則が前進したにもかかわらず、人類の多くはいまだに恐怖の中で暮らしながら、自由を夢見ている。

 全体主義、独裁主義を問わず、説明責任を負わない支配者に今も権力が集中している国は、引き続き世界で最も組織的に人権侵害を犯している国となっている。

 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は、2006年も引き続き、世界で最も孤立した、抑圧的な政権のひとつであった。北朝鮮政権は、国民の生活のほぼあらゆる側面を支配し、言論、報道、集会、および結社の自由を奪い、移動の自由と労働者の権利を制限している。憲法で「信仰の自由」を規定しているが、真の信仰の自由は存在しない。政治犯を含む推定15万〜20万の人々が強制収容所に入れられており、多くの囚人が拷問、飢え、病気および寒さのために死亡している。

 ビルマの軍事政権は、その権力を維持するために、特に少数民族に対して、処刑、強姦、拷問、恣意的な拘留、そして村全体の強制移住を広く行った。囚人や拘留者は虐待され、生命にかかわる厳しい環境に拘束された。政治活動家に対する監視、嫌がらせ、投獄が続いた。ノーベル賞を受賞した反体制指導者のアウン・サン・スー・チーは自宅軟禁され、外部との接触を断たれた状態が続いた。また1100人以上の政治犯が悲惨な投獄生活を送っている。強制労働、人身売買、子ども兵の徴集、そして宗教的差別が、引き続き広く行われた。政府が国民会議を再開したが、これは、政府が代表を選び、自由な議論を禁止した、見せかけだけの議会であった。「民主主義のロードマップ」の一環とされたこの国民会議は、1990年の選挙の結果を無効とし、現政権の方針に沿った新憲法を採択することを目的としていた。現政権が残酷かつ破壊的な悪政を行った結果、国民が難民となって国外に逃れ、伝染病が広がり、近隣諸国への麻薬密輸や人身売買が行われている。

 イラン政府は、恣意的な逮捕と拘留、拷問、失跡、過度の武力行使、そして公正な公開裁判の拒否の広がりなど、反体制派、ジャーナリスト、改革論者らに対する取り締まりを強化して、言論と集会の自由をはなはだしく侵害した。政府は、バハイ教徒など宗教的少数派の拘留・虐待を継続したほか、ホロコースト(ナチスによるユダヤ人大虐殺)を否定する会議を主催して各方面から非難された。12月15日に行われたイラン専門家会議選挙の準備期間中に、立候補申請者の3分の2以上(これには女性候補全員が含まれていた)が失格とされ、多くの議席が無競争となった。イラン各地の地方選挙でも数百人の候補が失格となった。政府は2006年も引き続き、責任ある政府を求める国内外からの要求を無視し、シリアとレバノンでのテロ活動を支援するとともに、ある国連加盟国の破壊を要求した。

 ジンバブエのムガベ政権は、全面的な人権侵害を続けた。公務員の汚職と刑事免責が広く見られた。2002年の公務機密法および公共秩序治安法が現在も有効で、市民の自由を厳しく制限した。2006年の議会補欠選挙および地方議会選挙では、政府が選挙のプロセスを操作して、有権者から選挙権をはく奪し、与党候補に有利に選挙を行えるようにした。与党の圧倒的な優勢により、広く協議せずに憲法を改正することができた。与党を批判する者や野党支持者に対しては、治安部隊による嫌がらせ、殴打、恣意的な逮捕が行われた。農場での混乱や土地の強制収用も引き続き行われ、時に暴力が伴うこともあった。2005年の「治安回復作戦」では、強制退去の結果70万人がホームレスとなったが、こうした活動は、規模は縮小されたものの継続された。政府は、人道団体の援助活動を妨害した。12月に、ムガベ大統領とその支持者は、大統領選挙を2010年まで延期することによって、ムガベ大統領の任期を2年間延長することを提案した。

 キューバでは、フィデル・カストロが病に倒れたため、ラウル・カストロが暫定的に国家元首を務めたが、政府は、平和な方法で政権を交代させる権利、もしくは革命またはその指導者を批判する権利などの基本的な権利をはじめ、ほぼすべての国民の権利を侵害し続けた。2006年に政府は、反体制派や、政府にとって脅威と見なされるその他の市民に対する嫌がらせを増やした。これは、言葉による虐待や身体的な攻撃を含む「拒絶行為」と呼ばれる集団攻撃の形を取ることが多かった。拘留者や囚人に対する殴打や虐待も行われたが、罰せられることはなかった。2006年には、形ばかりに囚人の釈放が行われたが、同年末時点で少なくとも283人の政治犯および拘留者が拘束されており、この中には2003年3月の取り締まり強化で投獄された民主主義・人権活動家75人のうちの59人が含まれていた。

 中国政府の人権実績は、2006年にいくつかの分野で悪化した。政治・宗教活動家、ジャーナリスト、作家、そして法の下での権利を行使しようとする弁護士に対する監視、嫌がらせ、拘留、投獄など、注目を集める事件が増えた。家族が嫌がらせを受けたり拘留されたりする事例もあった。苦情への対策を求める多数の集団デモや抗議活動が引き続き行われたが、暴力によって鎮圧されるケースもあった。NGO、インターネットを含むメディア、そして裁判所や判事に対して、新たな政府統制が課せられた。未登録の宗教団体や、少数民族、中でもウイグル人とチベット人に対する抑圧が、引き続き深く懸念されている。

 ベラルーシでは、ルカシェンコ政権が、抑圧的な政策を継続・強化した。3月に行われた大統領選挙には、重大な不正があった。その後、選挙結果に対する市民の抗議活動の取り締まりで、最大1000人が逮捕され、多くは短期の禁固刑を言い渡された。さらに、大統領選でルカシェンコの対立候補であったアレクサンデル・コズリンをはじめ多くの活動家や野党党員が、2年〜5年半の禁固刑を言い渡された。

 エリトリア政府は、引き続き、サハラ以南のアフリカで最も抑圧的な政府のひとつであり、その人権に関する実績は2006年に悪化した。政府の治安部隊が、裁判なしの処刑を行った。国境を越えてエチオピアへ入ろうとする者を、治安部隊がその場で撃ったという、信頼できる報告がある。政府は、徴兵忌避者とその親族を逮捕する運動を強化した。これによって逮捕された者の中には拷問を受けた者もいるという信頼できる報告もあった。2005年と同様に、政府は、「アフリカの角」地域における深刻な干ばつにもかかわらず、いくつかの国際人道NGOに国外退去を命じた。また、信仰の自由に対する厳しい制限も続いた。

 第4の厳しい現実として、個人的・政治的自由の拡大に対する要求が世界的に深まるに従い、政治的・社会的変化に脅威を感じる人々からの抵抗が強まっている。

 人権擁護者およびNGOは、国家の成功に不可欠である。今日の世界では、国家が直面する諸問題は複雑すぎて、たとえ最も大きな力を持つ国であっても、単独で対処することは不可能である。国内外の多数の課題に対処するためには、市民社会の貢献と、意見や情報の自由な流れが極めて重要である。NGOの政治的自由と公開討論を制限することは、社会自体の成長を制限することにしかならない。

 2006年には、個人的・政治的自由に対する要求の高まりに対して、国民への義務を受け入れるのではなく、NGOや、インターネットを含む独立系メディアなど、人権擁護家や人権侵害を暴露する者を抑圧する政府が、世界のあらゆる地域に存在した。NGOおよびジャーナリストを規制する法令を制定し、選択的に適用する国が多かったことは、憂慮すべき状況である。また、NGOやジャーナリストは超法規的措置の対象となり、未知の敵から攻撃を受けることが多かった。これらの例を以下に挙げる。

 ロシアでは2006年4月に新たなNGO法が発効した。この法律は、NGOの登録要件を厳しくし、NGOに対する監視を強化し、プログラムや活動に関して広範囲にわたる煩雑な報告義務を課すほか、あいまいで主観的な基準に基づいて登録を拒否したり、組織を閉鎖する権限を連邦登録局に与えるものである。政府が圧力と制約を加えた結果、表現の自由とメディアの独立性が後退した。10月には、人権擁護家で、チェチェンにおける人権侵害を批判する記事で知られた著名ジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤが、何者かに暗殺された。政府は、全国ネットの全テレビ・ラジオ局、および重要な地方局の大多数について株式の過半数を所有しており、これを利用して機密と見なされる情報へのアクセスを制限した。

 ベラルーシでは、煩雑な税務調査とNGO登録要件が課されたために、市民団体の運営が難しくなったほか、独立系メディア関係者への攻撃が続いた。11月には、民主化運動活動家のドミトリ・ダシケビッチが、未登録のNGOを運営した罪で18カ月間刑務所に収監される判決を受けた。

 カザフスタン政府は、野党「真実のアクゾル」党のサルセンバエフ共同議長が暗殺された後、同党を登録した。また、憲法第5条を厳格に解釈して、情報の提供は政党に対する資金援助に等しいと主張し、外国から資金提供を受けた超党派的な政党訓練活動を中止させた。7月にナザルバエフ大統領は、制限的なメディア修正法案に署名して成立させたが、欧州安全保障協力機構(OSCE)のメディアの自由に関する代表は、この法律を1歩後退と見なした。政府は引き続き、制限的な名誉棄損法を利用して、報道機関、ジャーナリスト、および批評家に罰金を科し、有罪を宣告し、活動を停止させた。4月には、活動を停止させられた報道機関の社員がひどく殴打される事件があった。

 トルクメニスタンでは、表現、結社、および集会の自由が厳しく制限され、政府はあらゆるNGO活動を統制しようとした。海外から発信される衛星テレビ放送を全国で見ることができるが、国内のメディアはすべて政府が統制し、国内のジャーナリストは、特に許可を得なければ外国人との接触を一切禁止されていた。インターネットへのアクセスは、国有のトルクメン・テレコム社を通じて提供されていたが、著しく制限されていた。また、2002年9月以降、首都では新たなインターネット・アカウントの開設が禁止されている。8月に政府は、ジャーナリストのオグルスパパル・ミラドバ、アンナクルバン・アマンクリチェフ、サパルドルディ・ハジエフを逮捕し、非公開の即決裁判を行った。そして、武器所持の罪で6〜7年間の刑務所への収監を言い渡した。ラジオ・フリー・ヨーロッパ/ラジオ・リバティーの特派員であったミラドバは、9月に獄死したが、そのときの状況には不審な点がある。NGOの報告によると、彼女は拘留中の夏、2人の同僚と共に、武器所持の自白を引き出すための拷問を受けた。12月21日にサパルムラト・ニヤゾフ大統領が死去した。

 ウズベキスタン政府は、ほとんどのNGO活動を統制しようとし、同国内で活動する国際NGOも含め200以上の市民団体を、法律違反を理由に強制的に閉鎖した。独立系ジャーナリストおよび人権活動家に対する迫害も続いた。

 シリア政府は、情報の普及を厳しく統制し、政府に対する批判や、宗教的権利および少数派の権利などの宗派的な問題を議論することを禁止した。こうした制約に違反して個人の意見を表明した場合には、拘留されたり、殴打された。例えば2月には、予言者マホメットを描いた漫画をめぐる論争が起きた後で、宗派間の対話を呼びかけたジャーナリストのアデル・マーフーズが逮捕された。シリア政府は、報道・出版法、刑法、および非常事態法を適用して、インターネットへのアクセスを検閲し、電子メディアを制限した。国内の人権活動家に対しては、常に厳しく監視したり、国外のセミナーや会議に出席しようとすると渡航禁止を言い渡すなど、嫌がらせも行われた。

 イランでは、政府が独立系新聞「シャルグ」と「イラン」を閉鎖し、ニューヨーク・タイムズやBBCファルシなどのインターネット・ニュースサイトへのアクセスを妨げ、ジャーナリストやブロッガーを投獄するなど、報道の自由が史上最も厳しく抑圧された。当局は、ジャーナリストに対する武器として渡航禁止令を利用した。

 ブルンジでは、政府によるジャーナリストや人権活動家に対する逮捕、拘留、および脅迫が増加した。警察に逮捕された大勢の人々の中には、国内有数の汚職防止NGOの代表も含まれており、数カ月にわたって拘留された。ある州の知事が、国内有数の人権NGOであるイテカ連盟を、平和の敵と呼んだと報告されている。また11月には、ある政府関係者が、同国内で登録されている32の国際NGOが、政府への年次報告書提出義務を怠ったため、追放される可能性がある、と発表した。

 ルワンダは、市民社会の機能を制限する状況にあった。国内および国際NGOには、毎年登録を行い、活動報告書を政府に提出することが法律で義務付けられている。当局が一部のNGOに対して、政府からプロジェクトの許可を得なければ、外国から資金提供を受けることは認められないという要件を義務付けたとの報告もある。また、すべてのNGOは、その活動の管理を目的とする団体への加盟が求められていた。

 ベネズエラ政府は、市民団体に対する嫌がらせや脅迫を続けた。とりわけ、選挙監視NGOのスマテの指導者たちについては、外国から資金の提供を受けたことで陰謀・反逆の罪に問われた裁判が無期延期となったが、まだ未決の状態にあり、懸念として残っている。2006年末に国会が検討していた法案が施行されれば、NGOの資金調達に対する政府の統制が強化され、人権または民主化促進分野でのNGOの活動を制限することになる。刑法が改正され、公務員を侮辱した者は刑務所に収監されるようになったこと、またジャーナリストに対する暴力事件が続いたことが、自己検閲の風潮につながった。政府は、独立系および反政府派の報道機関に対する嫌がらせを強化した。12月にチャベス大統領は、ベネズエラで最も古い民間テレビ・ネットワークであるラジオ・カラカス・テレビの放送免許を更新しないと発表した。政府は、同ネットワークの所有者たちが「クーデター扇動者」であり、国民の信頼を裏切っていると非難した。

 中国は、国内のNGOか、国際NGOかを問わず、引き続き監視と制限を強化した。国境なき記者団は、2006年末までに、ジャーナリスト31人およびインターネット・ライター52人が投獄されていた、と報告した。政府は、インターネットの利用を奨励する一方で、その利用を監視し、コンテンツを統制し、情報を制限し、規則に違反した者を罰した。また、ウェブサイト登録要件を厳しくし、オンライン・コンテンツに対する政府の統制を強化し、違法なオンライン・コンテンツの定義を拡大した。政府は、問題があると見なしたサイトへのアクセスを一貫して妨害した。また、当局がウェブサイト全体ではなく特定のコンテンツのみを選択的にアクセス不能にする高度な技術を採用し始めたことが報告されている。

 ベトナムは、インターネットに対する監視と制限を続け、国際的な人権サイトおよびニュース・サイトを妨害した。法律では、国民が、非効率的な政府や汚職について公に苦情を述べることは許されているが、政府は依然として、マスコミが共産党の役割に疑問を呈したり、多元主義や複数政党制民主主義を促進したり、人権政策に疑問を投げかけたりする記事を書くことを禁止している。政府は、独立系サービスプロバイダーへの直接のアクセスを禁止しており、インターネットカフェの所有者は、顧客の個人情報とアクセスしたサイトを登録することを義務付けられている。政府は、民主主義に関する記事を翻訳し、インターネットで配布した罪で投獄されていたファム・ホン・ソン博士をはじめとする数人の著名な政治的・宗教的反体制活動家を釈放した。

 最も厳しい現実は、大量虐殺であった。

 ホロコーストの恐ろしさと第2次世界大戦という大変動に対する人類の良心の怒りを表現した世界人権宣言が国連で採択されてから60 年近くを経た今、スーダンのダルフール地域での大量虐殺によって、この地域が荒廃する状況が続いた。

 2005年1月の包括的和平協定によって、22年に及ぶ北部と南部の内戦が終わり、同年統一政府が樹立されたにもかかわらず、スーダンでは民族間の紛争が続き、特にダルフールは壊滅的な状態となった。ダルフールにおける大量虐殺の責任は、スーダン政府と、政府が支援するジンジャウィード民兵組織にあり、この紛争のすべての当事者が、広がる民間人の殺害、戦争の道具としての強姦、組織的な拷問、略奪、子ども兵の徴集など深刻な人権侵害を犯した。2006年末までには、ダルフールでの紛争の結果、少なくとも20万人の民間人が死亡し、戦闘により200万人が難民となった。23万4000人以上の難民が隣国のチャドに流入し、チャドと中央アフリカ共和国はいずれも、スーダンとの国境で激しい民族紛争を経験した。

 スーダン政府は、アディスアベバでの和平枠組み案に対する支持を表明したにもかかわらず、ダルフールへの国際軍の派遣を公然と拒否し、2006年後半には軍事攻撃を再開した。治安状態が悪化したため、一部の国際NGOや人道団体は、活動の縮小または停止を余儀なくされた。

人権擁護活動家の保護

 国連世界人権宣言の大いなる約束を実現しようとするならば、国際社会、特に世界の民主主義諸国は、今日の厳しい現実を変えられないということを受け入れることはできない。むしろ、こうした現実があるからこそ、われわれは、人間の尊厳と政治改革の実現を目指して活動する人々と提携する義務がある。

 2006 年には、民主主義政府によって人権擁護活動家の勇気ある活動が強調された。

 2006年に国連総会が採択した国別決議は、イラン、ベラルーシ、北朝鮮、およびビルマの各国で人権擁護活動家を保護する必要性を強調している。

 2004年にブッシュ大統領が国連総会に提出した案に端を発し、2005年に設立された国連民主主義基金は、その1年目を成功裏に終了した。同基金の理事会は、100カ国以上から提出された1300件を超えるプロジェクト案の中から、125件のプロジェクトに資金を提供することに同意した。3500万ドルを超える資金の大半が、民主化を促進する市民団体に供与される。

 地域レベルでは、2006年6月に、米州機構(OAS)総会が、サントドミンゴ宣言を採択した。これは、米州地域諸国が、「すべての人に対して、インターネットを含むあらゆる形態のマスメディアを通じて行われる、検閲を受けない政治討論や自由な意見交換へのアクセスを含む表現の自由を享受する権利を保証する」ことを確約する、画期的な多国間の約束である。また各国の外相は、これを実現するための戦略とベストプラクティス(最優良事例)を確立し奨励する決意を宣言した。

 OASの人権擁護活動家のための米州人権委員会は、こうした活動家が一部の国で直面している深刻な問題に関する報告を発表し、政府が彼らの活動を支持することの必要性を強調した。

 7月のアフリカ連合首脳会議に先立って、アフリカ19カ国の市民団体がガンビアのバンジュール市で会合を開き、各国の条約義務順守に関するアフリカ相互監視機構における市民団体の役割、市民団体による情報へのアクセスの改善方法、そして差別を固定化する国籍法に関する各国首脳への提言を作成した。これらの提言は首脳会議で採用された。

 拡大中東・北アフリカ地域では、ヨルダンの死海で開催された「未来のためのフォーラム」に、地域の政府関係者と市民団体代表が、G8諸国の代表と共に参加した。地域の16カ国から、数百の市民団体を代表する50人近くの指導者が、法の支配、透明性、女性と青少年の権利拡大、そして市民団体のための法的環境などについて話し合った。また、提言を実行に移すメカニズムを確立することによって改革を強化する方法についても話し合った。市民団体が示した提言の採用と実行という、最も困難な作業がまだ残っているが、このフォーラムは、これまでには存在しなかった、市民団体が形成され、地域の各国政府と交流する政治的な場の開設に貢献した。

 2006年12月の国際人権デーに当たって、ライス国務長官は、人権および民主主義擁護活動家を支持する、米国による2つの重要な取り組みに着手した。

 ライス長官は、国務省が運営する人権擁護活動家基金の設立を発表した。これは、政府から抑圧を受けた結果、特別な支援を必要としている人権擁護活動家を助けるために、少額の補助金を迅速に提供するものである。この資金は、弁護士費用、医療費、あるいは活動家の家族の緊急なニーズを満たす費用として使うことができる。

 またライス長官は、政府によるNGOの扱いに関する指針となるNGO10原則を発表した。これらの基本原則は、米国政府によるNGOの扱いの指針となるものであり、また米国が他の政府の行動を評価するためにも使われる。これらの原則は、人権擁護活動家に関する、より長文で詳細な、国連およびその他の国際文書を補完することを意図しており、政府、国際機関、市民団体、ジャーナリストが利用できる便利な参考資料として役立つことによって、困難に直面するNGOに対する世界的な支援の促進に貢献することができる。

 民主主義諸国が人権を擁護する人々や市民団体の活動を支援すれば、世界各国の国民が自由に自らの運命を切り開いていくのを助けることができる。そして、そうすることによって、われわれは、すべての人々にとって、より安全で、より良い世界を築くことに貢献できる。

 われわれは、人権擁護活動家を擁護しなければならない。彼らこそが平和的・民主的な変革の担い手だからである。


日本

 日本は、人口およそ1億2770万人の議会制民主主義国家である。主権は国民が有し、天皇は国家の象徴と定義されている。9月26日に小泉純一郎氏の後を引き継いだ安倍晋三総理大臣が、自由民主党と公明党の連立政権を率いている。最近では、2005年9月に総選挙が行われ、これは一般に自由かつ公正な選挙とみなされた。全般的に、治安部隊の文民統制は効果的に行われた。

 日本政府は、全体的に国民の権利を尊重した。しかし、女性と子どもに対する暴力が続き、セクハラ(性的嫌がらせ)も続いた。政府は人身売買と闘う努力をしているが、この問題は依然として広くはびこっている。女性のほか、部落民や、アイヌをはじめとするマイノリティーに対する社会的差別が全国的に見られた。

人権の尊重

第1部 個人の人格の尊重(以下の状況からの自由)

a. 恣意(しい)的または違法な人命はく奪

 2006年においては、政府またはその職員による、政治的動機による人命はく奪は報告されなかった。

b. 失跡

 政治的動機に基づく失跡の報告はなかった。

c. 拷問およびその他の残酷、非人道的、または屈辱を与えるような処遇または処罰

 法律により、このような行為は禁止されており、実際に日本政府は、おおむねこれらの規定に従った。これまでとは異なり、2006年には、受刑者や被勾留(こうりゅう)者に対する暴力は報告されなかった。人権問題を扱う非政府組織(NGO)の報告によると、5月の改正法施行後、受刑者の処遇が改善された。

 2006年末時点で、受刑者に対する虐待および放置の事件が多数係争中であった。この中には、2005年に女性容疑者を強姦して有罪となった警部補の上訴、および2004年に留置場で容疑者が死亡した事件で有罪となった警察官3人に対する民事訴訟などがあった。

 政府は、死刑囚およびその親族に対し、死刑執行日に関する情報を与えないという慣行を継続した。死刑囚の親族は、死刑執行後まで、その事実を告知されなかった。死刑囚は、死刑執行まで平均7年5カ月間、単独室に収容された。死刑囚には、親族および弁護士の面会が認められた。2007年に施行される新しい法律では、親族や弁護士以外の面会も許可される。

 受刑者の人権を保護するNGOの報告によると、刑務所の管理職員は、受刑者の独居拘禁に関する規則を日常的に乱用していた。施行規則は、独居拘禁の上限期間を規定しているが、刑務所長に幅広い裁量権を与えている。最長60日間までの懲罰としての独居拘禁が認められているが、刑務所の運営手続き上、刑務官が受刑者を「隔離」して単独室に無期限に拘禁することができる。

刑務所および拘置所の状況

 刑務所の状況は、概して国際基準に合致したものであった。しかしながら、いくつかの施設では、定員超過、暖房設備の欠如、および食料と医療の不足が見られた。NGOの報告によると、一部の施設では、受刑者が、寒さから身を守るために必要な衣類や毛布を十分に与えられていなかった。また、佐賀市では、重い症状が認められたにもかかわらず、受刑者にほぼ2年間治療が施されなかったと報道されている。ようやく医師の診察を受けたときには、腸がんが進行した状態であると診断された。

 これまでとは異なり、受刑者に対する強姦あるいは暴力の報告はなかった。法務省の報告によると、2005年に自殺した受刑者の数は15人である。

 未成年者が、成人と同じ矯正施設に収容されることがあった。NGOの報告によると、12月現在、16歳の2人のクルド人移民が、3カ月以上にわたって茨城県の入国者収容所に、成人と共に収容されている。

 受刑者との面会は、依然として制限されているが、制限が緩和されつつあった。2006年に法務省は、独立した視察委員会の設立を定めた改正法の規定を施行した。委員には、医師、弁護士、およびNGO代表が含まれた。受刑者の権利擁護団体によると、これらの委員会は、法務省の監督下にある多くの刑務所を訪問した。しかしながら、2006年末時点では、警察が管理する留置場については、警察庁はまだ同様の制度を導入していなかった。留置場への訪問は制限されており、警察官により厳しく管理されていた。

 2006年に、信書に関する刑務所規定が緩和された。保安上の理由で、刑務所の管理職員が受刑者の信書を検査し、時には検閲を続けたが、受刑者が受け取る信書の数または信書を交換する相手の数が制限されることはなくなった。

d. 恣意的逮捕または勾留

 法律により恣意的逮捕や勾留は禁止されており、日本政府は、概してこの禁止を順守した。

警察および治安維持機構

 警察は、国内の法執行および治安維持に責任を負う。自衛隊は、対外的な安全保障の責任を負うとともに、国内の治安維持にも限定的責任がある。中央または地方レベルでも、警察内部の汚職や刑事免責の大きな問題は報告されなかった。総理大臣の管轄下にある独立機関の国家公安委員会は、警察庁を監督する。

 法律では、警察に対する苦情申し立てを国家公安委員会および各都道府県公安委員会に提出できると定めており、公安委員会は、警察に内部調査を行うよう命令する権限を有する。NGOは、公安委員会が、警察機関からの独立性に欠け、警察機関に対する十分な権限も持たない、と批判した。

逮捕と勾留

 個人の逮捕は、正当な権限を持つ当局者が十分な証拠に基づいて発行した令状により、公に行われ、被勾留者は、独立した司法制度による裁きを受けた。

 法律により、被勾留者には、その勾留の合法性に関する迅速な司法決定を受ける権利が与えられており、当局は実際にこの権利を尊重した。法律により、当局は被勾留者に対して、直ちに容疑を告知しなければならない。当局は全般的に、逮捕から72時間まで、留置場に被疑者の身柄を拘束することができる。さらに拘束を延長する場合には、その前に、裁判官が被疑者を面接しなければならない。裁判官は、起訴前の勾留期間を10日間ずつ、最長20日間まで延長できる。検察官は、この延長を習慣的に申請し、許可を受けた。検察官はさらに5日間の延長申請を行うことができる。

 刑事訴訟法により、被勾留者、その親族、または代理人は、裁判所に対して、起訴された被勾留者の保釈を請求することができる。しかし、留置場に勾留されている、起訴前の被疑者には保釈が認められなかった。逮捕された者の25%以上が、起訴されずに釈放された。

 警察と検察は、被疑者と弁護士の接見を制限することができる。被疑者を弁護士との接見をさせずに勾留できる期間は最高23日間である。いかなる時点においても、取り調べ中に弁護士が同席することは認められない。国選弁護人は、起訴後まで認められず、被疑者が起訴前に弁護士を雇う場合には、自費で行わなければならない。各地域の弁護士会が、限定的な無料弁護を被勾留者に提供している。親族が被勾留者と面会することは許可されているが、その際には職員の立ち会いがなければならない。

 政府の主張とは逆に、弁護士接見が、時間と回数の両面で制限されているとの批判があった。また、被疑者が、取り調べを行う当局によって勾留されることは、暴行や自白強要の可能性を高めるという批判もあった。これに対して、政府は、留置される人々の事件は、事実認定が争点とはなっていないものが多い、と反論している。政府の統計によると、逮捕された被疑者の98%以上が留置場に送られた。残りの2%は、法務省が管理する拘置所に送られた。

e. 公正な公開裁判の拒否

 法律により、独立した司法制度が規定されており、日本政府は、事実、全般的に、司法の独立性を尊重した。

 裁判所には、家庭裁判所、簡易裁判所、地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所といったいくつかの段階があり、最高裁判所が最終的な上訴裁判所である。通常、刑事裁判は、地方裁判所で開始され、その判決を高等裁判所に控訴し、最終的には最高裁判所に上告することができる。

 法律により、迅速な裁判が規定されており、日本政府は全般的に、それに従った。2005年における刑事裁判の期間は、平均で3.2カ月であった。

審理手続き

 法律により、公正な裁判を受ける権利が規定されており、独立した司法制度が、全般的に、この権利を執行した。法律は、この権利をすべての市民に適用しており、また起訴された個人がそれぞれ独立した裁判所で公開裁判を受けること、弁護人を得られること、そして反対尋問の権利を与えられることを保証している。陪審裁判は行われていない。被告は、法廷で有罪と証明されるまで、推定無罪とされる。また、被告は、自己に不利益な供述を強要されることはない。

 ほとんどの事件は、裁判所に持ち込まれる前に解決された。被疑者が強制的に犯行を認めさせられることがないように、また被疑者が本人の自白のみを証拠に有罪判決を受けることがないようにするための保護手段が存在するが、警察の取り調べ手続きマニュアルによると、警察の捜査官には、被勾留者から自白を引き出すために多大な圧力をかけることが認められている。法的権利の擁護に取り組むNGOによると、起訴された被勾留者の大半は、警察に勾留されている間に自白をしている。警察の留置場を使用すれば、被疑者が取調官の監督下に置かれることになるが、そうした事例は1970年には総逮捕件数の82%であったのが、2004年には98%と、30余年間に増加している。第一審裁判所で審理された事件の99%以上で、有罪判決が下された。

 法律により、弁護人との接見が認められているにもかかわらず、かなりの数の被疑者が、弁護人との接見の不足を報告した。政府は、被疑者が弁護人と協議をする権利は、憲法の精神に合致する範囲内で制限することができる、と主張した。

 審理手続きは検察側に有利となっている。検察官による全面的な証拠の開示が法律で義務付けられておらず、検察が法廷で使用しない資料は伏せておくことができる。一部の被告の法定代理人が、警察の記録にある関連資料を入手できなかった、との批判もあった。

 外国人被告にとっては、言葉の壁が深刻な問題であった。裁判官、弁護士、および日本語を話せない被告との間で、効果的な意思の疎通を確保するためのガイドラインは存在しない。法廷通訳者を認証する標準免許あるいは資格取得の制度もなく、被告のための翻訳や通訳がない状態でも裁判が行われた。数人の外国人被勾留者が、警察によって、十分な翻訳もなく読むことのできない日本語の供述書に署名をすることを強要された、と申し立てた。

政治囚と政治的被勾留者

 政治囚または政治的被勾留者が存在するとの報告はなかった。

民事司法手続きと救済

 民事事件に関しては、独立した公正な司法制度がある。人権侵害に関する事件は、民事裁判所で扱われている(第1部c項を参照)。

f. プライバシー、家族、家庭、または信書に対する恣意的な干渉

 法律は上記のような行動を禁止しており、政府は全般的にこれを順守した。

第2部 市民の自由の尊重

a. 言論と報道の自由

 法律では言論の自由と報道の自由が認められており、全般的に日本政府は、実際にこうした権利を尊重した。独立した報道機関、効果的な司法制度、および機能する民主的政治制度が相まって、言論と報道の自由が確保された。

インターネットの自由

 政府によるインターネットへのアクセスの制限はなかった。また政府が電子メールまたはインターネット・チャットルームを監視したとの報告もなかった。個人および団体は、電子メールを含むインターネットを使って、平和的に意見を表明することができた。人々は、広く普及しているインターネット接続を日常的に利用した。

学問の自由と文化的行事

 政府が学問の自由や文化的行事を制限することはなかった。

b. 平和的な集会および結社の自由

 法律は集会と結社の自由を規定しており、全般的に、政府は実際にこれらの権利を尊重した。

c. 信仰の自由

 法律は信仰の自由を規定しており、概して政府は実際にこの権利を尊重した。統一教会の信者に対する拉致や強制棄教が行われたとの主張に政府が対応しなかった、という同教会による申し立て件数は減少した。

社会的な虐待および差別

 各宗教団体間の関係は概して友好的であった。日本国内にはユダヤ教信者約200世帯が居住していると推定されるが、反ユダヤ主義の活動は報告されなかった。

 詳しくは、「信仰の自由に関する2006年国際報告書」を参照。

d. 国内の移動、外国旅行、移住、および本国帰還の自由

 法律は、上記の各権利を規定しており、概して政府はこれらを尊重した。

 法律により国外追放は許可されておらず、政府がこれを実行することもなかった。

難民の保護

 法律により、国連の1951年の難民の地位に関する条約、および関連の1967年の議定書に従い、亡命者としての保護または難民としての認定を行うと規定されており、日本政府は、難民を保護する制度を確立している。政府はおおむね、国連難民高等弁務官事務所およびその他の人道支援団体と共に、難民および亡命希望者の援助に協力した。

 実際面では、政府は、ルフールマン(迫害の恐れのある国に個人を強制送還すること)に対し、ある程度の保護を提供した。しかし2月に、2人のクルド人男性が、亡命申請拒否を上訴する法的権利を行使できないまま、強制送還された。

 日本政府が難民または亡命者と認定した事例はわずかであった。2005年に法務省に提出された384件の申請のうち、政府が難民と認定したのは46人であった。また日本は、1951年の難民の地位に関する条約または1967年の議定書の下で難民と認定されない97人に対して、一時的な保護を与えた。2006年に日本政府が難民の再定住を認めた例はなかった。

 難民は、少数民族の場合と同様、住居、教育、雇用の機会の制限といった差別を受けた。難民認定が未決または上訴中の人は、就業したり社会福祉を受ける法的権利がなく、過密状態の政府の収容施設やNGOの支援に頼るしかなかった(第5部を参照)。

第3部 政治的権利の尊重 − 国民が政府を変える権利

 法律は、国民が平和的に政府を変える権利を規定しており、日本国民は、普通選挙権に基づいて定期的に行われる自由かつ公正な選挙を通じて、この権利を行使した。

選挙と政治参加

 日本では最近、2005年9月に総選挙が行われた。不正行為の報告はほとんどなく、おおむね自由かつ公正な選挙が行われたと見なされている。

 1990年代の短期間を除き、1950年代半ば以降はどの政権においても自民党が第1党であった。政治的な反対勢力に対して政府が制約を加えた例はなかった。個人は自由に選挙に立候補することができた。

 参議院では242議席中34議席、衆議院では480議席中45議席を女性議員が占めた。これは、1946年に初めて国会に女性議員が誕生して以来、衆議院では最多の女性議員数である。9月に総理大臣が指名した18人の閣僚中2人が女性である。また、地方では、女性知事が5人、女性副知事が5人となり、こうした役職で公職に就く女性の数としては過去最高となった。

政府の汚職と透明性

 2006年には、政府の汚職に関する単発的な報告がいくつかあった。警察庁の1月から6月の統計によると、贈収賄事件が42件、談合事件が17件あった。2005年同期の件数は、贈収賄が39件、談合が9件であった。

 汚職スキャンダルにより、改革を求める国民の声が高まった。主な談合事件として、防衛施設庁が関係したものがあり、その他にも3県の知事が関与した事件があった。8月には、大阪の刑務所看守が、暴力団員であった受刑者からわいろを受け取ったとして逮捕された。また、岐阜県庁では、12年間にわたって広範囲に及ぶ汚職が行われていたことが、捜査によって明らかにされた。

 12月8日に、公務員による入札談合を防止する改正法が成立した。この新しい法律は、入札談合に関与した公務員に対して、5年以下の懲役または250万円以下の罰金に処すると定めている。

 一般市民には、政府の情報を入手する法的な権利がある。政府が、情報公開の合法的な要請を拒否したり、情報入手のために法外な料金を課したりしたとの報告はなかった。

第4部 人権侵害の疑いに対する国際および非政府機関の調査に対する政府の姿勢

 国内外の多くの人権団体が、概して政府による制約を受けずに活動し、人権訴訟について調査をし、調査結果を公表した。政府関係者は、全般的に協力的であり、こうした団体の見解に対応した。

第5部  差別、社会的虐待、人身売買

 法律により、人種、性別、障害、言語、および社会的地位に基づく差別は禁止されている。概して政府はこれらの規定を実行したが、女性、少数民族、および外国人に対する差別の問題は続いている。

女性

 女性に対する配偶者からの暴力は、法律で禁止されているが、現実には引き続き行われている。地方裁判所は、配偶者からの暴力の加害者に6カ月間の接近禁止を命ずる保護命令を出すことができ、違反者には懲役1年以下または100万円以下の罰金を科すことができる。この法律は、内縁関係にある者や離婚している者にも適用される。また、各県が配偶者からの暴力の被害者用の避難施設を拡張することを奨励し、すでにそうした施設を運営している40の民間機関に地方自治体が財政援助を行うことを規定している。

 社会的、文化的な圧力が理由で、配偶者からの暴力は報告されないことが多かったため、女性に対する暴力に関する警察庁のデータは、おそらくこの問題の規模の大きさを十分に表していないと思われる。2005年に、各地の配偶者間暴力相談所では、配偶者からの暴力に関する相談が計5万1358件あった。警察庁のデータによると、2005年には配偶者からの暴力事件が1万6888件報告された。支援の要請に対しては、警察は迅速に対応した。また被害者に、自らを守る基本的な手段を教え、保護命令申請の方法を教えた。

 法律により、配偶者間の場合も含め、あらゆる強姦が犯罪とされており、政府は概してこの法律を効果的に執行した。政府のデータによると、2005年には2076件の強姦事件が報告され、132件で有罪判決が下された。2005年には集団強姦事件104件が報告され、そのうち5件で有罪判決が下された。集団強姦罪には、最低でも4年の懲役が科される。多くの地方自治体では、被害者の女性に対する内密の支援を提供するために、警察内に女性職員による特別相談所を設置した。

 職場におけるセクハラ(性的嫌がらせ)は続いた。2005年には、厚生労働省に、職場におけるセクハラの報告が7894件提出された。法律では、セクハラ防止を怠った企業名を明らかにする措置が規定されているが、違反した企業の名前を公表する以外には、順守を強化するための懲罰的措置は含まれていない。政府は、差別やセクハラに関する苦情に対処するために、ホットラインを設置したりオンブズマンを指名したりしている。2005年12月に厚生労働省は、セクハラの結果として生じた精神疾患は、法に基づき補償の対象となり得ることを、全国の労働局に通達した。また政府は、セクハラ防止の自主活動を行った民間企業および公的機関を支持した。地方自治体や私鉄は、通勤電車でしばしば見られる女性に対する痴漢行為に対処する諸措置を取った。いくつかの鉄道会社は、さまざまな電車に女性専用車両を設けている。また、迷惑防止条例により、痴漢の初犯に懲役刑が適用できる。

 法律により性差別は禁止され、女性には男性と同じ権利が与えられている。男女共同参画審議会が法の施行状況を監視した。審議会の高官レベルのメンバーには、内閣官房長官、閣僚、国会議員らが含まれている。2006年に、同審議会は、男女平等のための政策を検討し、男女平等達成への前進を測定するため、定期的に会合を行った。

 依然として雇用における不平等が社会に根強く残っている。総務省の統計によると、女性は全労働力の41.6%を占めたが、女性の平均月給は22万2500円で、男性の平均月給33万7800円の3分の2に満たなかった。民間企業の多くは、男性社員を高給の管理職コースに乗せる一方で、同等の資格を持つ女性社員を、より給与の低い事務職コースに向けた。

 売春は違法であるが、広く行われている。セックスツアーは、大きな問題とはならなかった。政府は引き続き、売春のための女性人身売買の問題に取り組んでいる(第5部の「人身売買」を参照)。

 慰安婦(第2次大戦中に日本軍の性的奴隷となることを強要された女性)の問題は、引き続き論争を呼んだ。1993年に、当時の河野洋平内閣官房長官は、日本帝国陸軍が、兵士の性的奴隷となることを、朝鮮半島その他の地域の女性に強要したと公式に認めた。政府は1995年に、その償いの一環としてアジア女性基金(AWF)を設立した。同基金は、首相が署名した謝罪の手紙と共に、民間の寄付による補償金を各被害者に送った。多くの被害者は補償金を受け取ることを拒否したが、1995年から2002年までの間に、AWFは、元慰安婦285人に補償金を渡すことができた。

 慰安婦政策を批判する人々は、首相の謝罪の手紙は、慰安婦たちが耐えなければならなかった苦しみに対する道義的な責任を取るものであるが、法的な責任は取っていない、と主張した。また、人権擁護NGOは、政府が被害者に直接補償金を支払うことを求め、サンフランシスコ講和条約によって政府は直接補償金を支払うあらゆる義務を免除されたとする政府の見解を認めなかった。2006年に、一部の政治家が、慰安婦問題の再検討を要求したため、この論争が大きくなった。

子ども

 日本政府は、子どもの権利と福祉を確約しており、概して子どもの権利は十分に保護された。

 公的学校教育(訳注=高専、大学等を除く)は12年間である。初等教育の授業料は無料であり、前期中等教育(15歳または中学3年生まで)までは義務教育である。最低限の学力基準に達している生徒に対しては、後期中等教育(18歳まで)の門戸が広く開かれていた。日本の社会は、教育を極めて重要視しており、政府によると、後期中等教育の就学率は、男女共に94.4%を超えた。どの学年においても、男子と女子の扱いに差異はなかった。

 日本政府は、子どもも含め、すべての国民に、国民皆保険制度を提供している。

 児童虐待の報告件数は引き続き増えた。2005 年の児童虐待報告件数は3万4451件で、前年に比べ45%増加した。警察庁によると、2005年には、37 人の子どもたちが虐待によって死亡した。法律により、児童福祉職員は、虐待をする親が子どもと会ったり連絡を取ったりすることを禁止する権限を与えられている。また法律により、しつけの名目で虐待をすることが禁じられているほか、教師、医師、および福祉関係者は、疑わしい状況があれば、全国各地にある児童相談所または地方自治体の福祉センターに報告することが義務付けられている。

 児童ポルノへのアクセス、そのダウンロード、および所有が合法であるため、法執行機関の関係者は、一部の国際的な児童ポルノ捜査に参加することができなかった。

 未成年者の人身売買、十代の売春、および援助交際が引き続き問題となった(第5部の「人身売買」を参照)。

人身売買

 政府が、ビザ発行基準の強化、人身売買被害者のための一時的な合法的移民の許可など、重要な措置を取ったにもかかわらず、人身売買は引き続き広く見られる問題であった。日本は引き続き、商業的な性的搾取のために売買される男女や子どもの目的国および経由国となっている。被害者の出身地は、中国、東南アジア、東欧、そして、これより規模は小さいが、中南米であった。これまでと異なり、日本人の少女が性的搾取のために国内で人身売買されることは、大きな問題にならなかった。

 本国のブローカーが女性を募集し、仲介者または雇用者に売り渡し、そして、その仲介者や雇用者が女性を借金で束縛し、労働を強制した。性的搾取を目的とする人身売買の仲介者、ブローカー、および雇用者は、組織犯罪とつながりのある場合が多かった。

 日本へ人身売買された女性は、通常、性風俗サービスを提供する許可を得た事業で、強制的に売春婦として働かされていた。性風俗産業には、ストリップクラブ、ポルノショップ、ホステス付きバー、個室ビデオ、エスコートサービス、通販ビデオ・サービスなどがある。

 風俗産業のために人身売買される女性の大半は、雇用者によって渡航書類を取り上げられ、移動の自由を厳しく制限された。逃亡を試みれば、本人または家族に報復が行われる、と脅されていた。多くの場合、雇用者はこれらの女性を孤立させ、常に監視下に置き、反抗すれば懲罰として暴力を振るった。一部のブローカーは被害者を服従させるために麻薬を使った、というNGOの報告もある。

 借金による束縛も、人身売買業者が被害者を支配する手段のひとつであった。人身売買の被害者は、日本に到着するまで、自分の借金の金額、その返済に要する期間、および到着と同時に課せられる雇用条件を理解していない場合が多かった。通常、契約開始時にこうした女性たちが負っている借金の金額は、300〜500万円であった。その上に、生活費、医療費(雇用者が提供した場合)、およびその他の必要経費の支払いを要求された。反抗を理由に当初の借金に「罰金」が追加された。概して、雇用者が借金を計算する方法は不透明であった。また雇用者は、問題を起こす女性や、HIVに感染している女性を「転売」し、あるいは転売すると脅して、女性の借金額を増やし、労働条件をさらに悪化させることもあった。

 警察庁は、NGOも参加する人身売買対策会議を開催したほか、人身売買事件への対処の仕方と被害者の確認について、状況を大きく改善させた。しかしながら、引き続き、警察が人身売買の被害者を十分に確認できなかったとの報告、あるいは被害者から得た証拠を提出されても、疑われているブローカーを取り調べようとしなかったとの報告が散見された。NGOの報告によると、女性が自発的に日本で不法就労する契約を結んでいるため、その女性が虐待的な環境で働いていても、警察や入国管理局の担当官が彼女を人身売買被害者と認めないことが時々あった。女性が、ある特定の種類の仕事に就くことに同意したものの、詐欺あるいは強制により売春をさせられているような事例は、必ずしも政府の統計に含まれているわけではないため、こうした統計はおそらく問題の規模を過小評価しているであろう。

 政府は、人身売買の被害者を保護する努力を拡大した。厚生労働省は、民間シェルターに対して補助金を割り当てるとともに、警察や入国管理局の担当官が、既存の家庭内暴力被害者のためのシェルター網を、本国への送還を待つ外国人人身売買被害者向けの一時的な住まいとして利用することを奨励した。政府は、被害者の医療費を負担し、また国際移住機関(IOM)への補助金を通じて本国への送還を支援した。厚生労働省の報告によると、2005年には、112人の女性が民間および公共のシェルターで保護された。またIOMの代表によると、同機関は、日本政府の援助を受けて、50人の女性の本国への帰国を支援した。

 政府のシェルターは、もともと家庭内暴力の被害者専用のシェルターとして使われていたもので、人身売買被害者に十分なサービスを提供できる資源を備えていなかった。人身売買被害者の援助を専門に行う民間NGOのシェルターには、7カ国語以上を話すことのできるフルタイムのスタッフがそろっていたが、厚生労働省のシェルターは、外部の通訳業者に頼らなければならなかった。政府のシェルターに収容された外国人女性の被害者たちは、人身売買被害者の特殊なニーズを理解する専門家から母国語で十分なカウンセリングを受けることのできない状況に置かれて、できる限り早く本国へ帰国することを選んだ。政府は、被害者の民間シェルターへの滞在を支援するための資金を用意していたが、専門のNGO施設に送られた被害者はほとんどいなかった。

 人身売買関連の犯罪で有罪の判決を受けた者に対する刑罰として最も多かったのは、引き続き執行猶予付きの刑であった。法務省によると、2005年の有罪判決75件のうち懲役刑が言い渡されたのはわずか6件であり、刑期は平均2年であった。懲役刑を科せられた6人は、1人を除きすべて外国人であった。警察、政府関係者、NGO代表者らは共に、暴力団(ヤクザ)が性産業を支配する出資者であるという点で意見が一致しているが、起訴された暴力団の組員は1人しかいなかった。法務省関係者は、人身売買被害者の性的サービスを提供するバーやクラブのオーナーが「どの程度関与しているのかを特定することは困難」であることを明らかにした。しかしながら、警察庁関係者は、被害者の証言を奨励するプログラム、警察による長期のおとり捜査、あるいは司法取引の能力がなければ、立件は難しいと主張した。また、NGOの弁護士は、性的サービスを提供する施設に対する取り締まりを嫌がる傾向が定着しており、性的サービスを買うことは違法であるにもかかわらず、顧客が逮捕された例はなく、施設は比較的制約を受けずに営業を続けることを許可されていると語った。

 一部の企業が「外国人実習生」を強制的に管理する事例についての報道が増えた(第6部e項を参照)。

障害者

 法律により、雇用、教育、および医療へのアクセスにおける身体障害者や精神障害者に対する差別は禁止されており、日本政府はこれらの規定を効果的に施行した。

 障害者は、一般に、雇用、教育、またはその他の公共サービスにおいて公然と差別されることはなかったが、実際面では、こうしたサービスへのアクセスは限られていた。

 2006年に、改正障害者雇用促進法が施行され、政府および民間企業が一定の比率以上の障害者(精神障害者を含む)を雇用することが義務付けられた。従業員300人以上の民間企業がこれを順守しなかった場合は、法定雇用数に足りない障害者1人当たり毎月5万円の罰金を支払わなければならない。厚生労働省のデータによると、6月現在、政府による障害者雇用は最低基準を超えていたが、民間部門では、2005年よりは増えたものの、公共部門に遅れを取っていた。

 12月の(建築物の)利便性に関する改正法により、公共施設の新たな建設プロジェクトでは、障害者のための設備を整備することが義務付けられた。また政府は、病院、劇場、ホテル、およびその他の公共施設の経営者が、障害者用の設備を改善または設置する場合には、低金利の融資および税控除を受けることを認めている。

 政府は、障害者が市民活動に参加する権利を支援した。

国籍・人種・民族に基づくマイノリティー

 部落民(封建時代に「社会的に疎外された者」の子孫)、および民族に基づくマイノリティーは、その程度はさまざまであるが社会的差別を受け、その一部は深刻かつ長期にわたるものであった。およそ300万人いる部落民は、政府による差別は受けていないが、住居、教育、雇用の機会を制限されるなど、深く根付いた社会的差別の被害者となることが多かった。

 差別を目的とする、部落民家系を記載した発禁のリストが、ある大企業の社内で発見された。このリストはもはや発行されておらず、部落民に対する差別もなくなった、と日本の社会で広く信じられていたが、このリストの発見によって、こうした信頼が失われた。NGOは、大都市圏外では、まだ広く差別が行われていると報告した。

 差別に対する法的な保護措置の改善にもかかわらず、大勢の韓国・朝鮮人、中国人、ブラジル人、およびフィリピン人の永住者は、その多くは日本で生まれ、育ち、教育を受けているにもかかわらず、住居、教育、および雇用の機会の制限など、さまざまな形で、深く根付いた社会的差別の対象となった。日本国民の間では、「外国人」(その多くは日本で生まれた民族的マイノリティー)が犯罪のほとんどを起こしているとの認識が広がっていた。法務省によると、こうした「外国人」の犯罪率は日本国民の犯罪率よりはるかに低いにもかかわらず、マスコミがこのような認識を助長した。

 日本に5年間継続して居住した外国人は、帰化し、国籍取得の申請資格を与えられる。しかしながら、多くの移住者は、帰化を阻む障害の克服に苦労した。そうした障害には、審査を行う担当官に広範な自由裁量が認められていること、日本語の能力が極めて重視されることなどがある。また、帰化手続きには厳しい身元調査が必要であり、申請者の経済状態や社会への適応状況なども調査される。日本政府は、この帰化手続きは、外国人が社会にスムーズに同化できるようにするために必要なものである、と主張した。

先住民

 人口2万7000人と推定される日本の先住民アイヌ民族にとっては、状況が改善された。1997 年に、国会は「アイヌ文化の振興ならびにアイヌの伝統等に関する知識の普及および啓発に関する法律(アイヌ文化振興法)」を可決し、アイヌ抑圧の長い歴史に終止符が打たれた。この法律により、アイヌは少数民族と認定され、全都道府県にアイヌの文化と伝統を振興する基礎的なプログラムを策定することが義務付けられ、アイヌを差別した旧法が無効とされ、北海道にアイヌの共有財産を返還することが義務付けられた。アイヌは、他のすべての国民と同じ権利を享受したが、他の民族的マイノリティーの場合と同様の差別を受けた(第5部の「国籍・人種・民族に基づくマイノリティー」を参照)。

第6部 労働者の権利

a. 結社の自由

 法律は、労働者が事前認可あるいは過度の要件なしに、組合を結成し、自分が選んだ組合に所属することを認めており、政府は同法を事実上執行した。労働組合は、政府の統制や影響を受けなかった。しかしながら、これとは別の法律により、公務員の基本的な労働組合権はかなり制約されており、国際労働機関は、組合結成の「事前認可が要求されているに等しい」とした。全国の労働人口のおよそ18.7 %が、労働組合に所属していた。

b. 団結権と団体交渉権

 公務員および公共企業体の従業員を除き、法律により、労働組合は干渉されることなく活動することが認められており、政府はこの権利を保護した。団体交渉権は法律により保護されており、自由に行使された。組合には、ストライキをする権利があり、労働者は実際にこの権利を行使した。

 日本には、輸出加工区はない。

c. 強制労働の禁止

 法律により強制労働は禁止されており、これは子どもにも適用される。しかしながら、そのような強制労働が行われたとの報告がいくつかあった(第5部を参照)。

d. 児童就労の禁止と雇用の最低年齢制限

 法律は、職場における子どもの搾取を禁止しており、日本政府は法律を効果的に施行した。法執行の責任は厚生労働省にある。社会的な価値観と厳格な法執行により、子どもたちは職場における搾取から保護されている。法律により、15歳未満の子どもを雇用することはできず、18歳未満の子どもを危険な、あるいは有害な仕事のために雇用することはできない。例外として、芸能界では、子どもは13歳から働くことができる。人身売買の被害者の場合を除き(第5部を参照)、児童就労は問題とならなかった。

e. 許容される労働条件

 最低賃金は、都道府県および産業別に、労働者、雇用者、および一般市民の3者から成る審議会に諮問した上で、設定される。最低賃金の適用される雇用者は、その最低賃金を表示しなければならない。最低賃金は広く順守されたと見なされている。都道府県により、最低賃金は、時給610円から719円まで幅があった。最低賃金の日給は、労働者とその家族がある程度の生活水準を維持するのに十分であった。

 法律により、ほとんどの産業で労働時間は週40時間と規定されており、週40時間、または1日8時間を超えて働いた場合には、割増賃金を支払うことが義務付けられている。しかしながら、公務員を含め労働者が、日常的に、法律で定められた労働時間を超えて働いていたことは、国民の広く認めるところである。労働組合は、政府が労働時間制限の執行を怠っている、と批判することが多かった。

 活動家団体は、日本語や日本における法的権利をほとんど、または全く知らないことが多い外国人を、雇用者が搾取している、と主張した。日本政府は、そうした労働者の雇用者を起訴することによって、不法外国人労働者の流入を制限しようとした。市民団体が、外国人不法就労者と共同で労働者の権利に関する情報へのアクセスを改善する活動を行った。

 「外国人実習生」制度が、人権侵害の疑いで厳しい調査を受けるようになり、マスコミは、企業による人権侵害行為に対する調査について報道した。一部の企業では、外国人実習生の賃金が最低基準に達しておらず、また違法であるにもかかわらず企業の管理する口座に自動的に賃金が振り込まれた。雇用者が、「逃亡防止」のために実習生の渡航書類を取り上げたり、移動を制限したりすることもあった。

 政府が、労働安全・衛生基準を設定する。厚生労働省は、労働安全・衛生に関する各種の法律・規制を効果的に実施した。労働基準監督官は、安全ではない操業を直ちに停止させる権限を有し、また法の規定に基づき、労働者は、雇用の継続を脅かされることなく、職業安全について懸念を表明し、安全ではない労働環境から離れることができる。