
サダム・フセイン政権によるこれまでの抑圧と残虐行為
ホワイトハウス報道官室
2003年4月4日
過去20年以上にわたり、イラク国民にとって最大の脅威は、サダム・フセイン政権であった。フセインは20年以上にわたり、自国民と近隣諸国の人々を、殺人、拷問、強姦、そして恐怖支配の対象としてきた。
イラク解放の暁には、これまでの非人道的犯罪やイラク国民に対する戦争犯罪の責任が、イラク主導の紛争後の過程で明らかにされる。米国、連合諸国、および国際社会は、イラク国民と協力し、こうした虐待行為に対処する強力で、信頼できる司法手続きを構築する。
フセイン政権の下では、何十万もの人々が、フセインの行動の結果として死亡した。その大半はイスラム教徒であった。
アムネスティ・インターナショナルの2001年の報告によると、「イラクでは、眼球をえぐる、激しく殴打する、電気ショックを与えるなど、多種多様な拷問が行われ、拷問で死亡した被害者もおり、永久的な身体的・心理的障害が残る被害者も多い」。フセインは、自らの縁者およそ40人を殺害させた。
イラクの政権は、政権に反対する者を脅迫するために使われる売春の容疑を口実に、女性を野蛮な斬首刑に処した。同政権が1983年から88年までの間に実行したと記録されている化学兵器攻撃により、およそ3万人のイラク人およびイラン人が死亡した。
ヒューマン・ライツ・ウォッチの推定によると、フセインが1987〜88年に行ったクルド人に対する恐怖作戦で死亡したクルド人は、少なくとも5万人、多ければ10万人に及ぶ。
-- イラクの政権は、1987〜88年に、少なくとも40のクルド村落に対して、マスタード・ガスや神経ガスなどの化学兵器を使用した。中でも、ハラブジャへの攻撃は最も規模が大きく、約5000人が死亡した。
-- この恐怖作戦により、2000のクルド村落が破壊された。
イラクの総人口2200万人のうち過半数を占める、1300万人のシーア派イスラム教徒は、信仰の実践を厳しく制限されている。これには、金曜日の共同礼拝の禁止、葬列の制限などが含まれる。
ヒューマン・ライツ・ウォッチによると、「アラブ人の上級外交官が、(1991年)10月、ロンドンのアラビア語日刊紙「アルハヤト」に語ったところによると、イラクの指導者らは、反乱の際に25万人が死亡し、その被害の大半は南部で発生したことを個人的に認めた」。
レフュジーズ・インターナショナルの報告によると、「抑圧的な政府の政策の結果、イラク人90万人が国内難民となった。これは主に、サダム・フセインのアラブ化政策(クルド人にクルド人であることを放棄するか資産を手放すかを迫る政策)を逃れて北へ移動したクルド人と、農業用地とするために南部の湿地を干拓する政府の活動を逃れたマーシュ・アラブ人である。20万人以上のイラク人が、引き続き難民としてイランに居住している」。
米国難民委員会の2002年の推定によると、それまでにイラクの政権によって、10万人近いクルド人、アッシリア人、およびトルクメン人が、「クルド族が支配するイラク北部に接する、中央政権統制下のキルクークおよび周辺の石油産出地域」から追放された。
「過去5年間で、5歳未満のイラク人の子どもたち40万人が、栄養失調や疾病によって亡くなった。子どもたちの死を防ぐことができなかったのは、イラクの政権の性質のせいである」(トニー・ブレア英首相、2003年3月27日)
-- 石油・食糧交換計画の下で、国際社会はイラク国民に十分な食糧と医薬品を供給しようとしたが、イラクの政権は、こうした物資の適切な配給を確保しようとする国際組織職員らによる十分なアクセスを妨害した。
-- 「イラクの自由」作戦開始以来、連合軍は、イラク軍が横流しした、本来はイラク国民用であった食糧でいっぱいの軍倉庫を、複数発見している。
イラクの政権は、人権監視員による訪問を再三拒否してきた。1992年から2002年まで、フセインは国連特別報告官のイラク入国を阻止した。国連特別報告官は、2001年9月の報告で、イラクの政権による「膨大な数の処刑」、多数の「政治的理由による司法権外の処刑」、および「法の適正手続きの欠如」を批判した。
処刑 - フセイン政権は、以下のような即時処刑を頻繁に実施してきた。
-- 1984年、アブ・グレブ刑務所で囚人4000人を処刑
-- 1993〜98年に、マージャール刑務所で囚人3000人を処刑
-- 1997〜99年の「刑務所粛正運動」で囚人2500人を処刑
-- 2000年2月および3月にアブ・グレブ刑務所で政治囚122人を処刑
-- 2001年10月にアブ・グレブ刑務所で政治囚23人を処刑
-- 2000年6月から2001年4月までの間に少なくとも130人のイラク人女性が斬首刑に処された。


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