
Secretary of Defense Donald Rumsfeld
ラムズフェルドは、第21代国防長官に宣誓就任するまでは、実業界にいた。ギリアド・サイエンス社の取締役会長(経営権のない)を務めたほか、アセア・ブラウン・ボベリ(ABB)およびアミリン製薬会社の役員を務めた。また、サロモン・スミス・バーニー・インターナショナル社顧問会議議長、そしてその他多くの企業顧問を務めた。
1954年に結婚したジョイス夫人との間に、3人の子供、そして5人の孫がいる。夫人は、シカゴ教育財団の創設者であり会長を務めた。
ラムズフェルドは、1932年にイリノイ州シカゴで生まれた。奨学金を得て学んだプリンストン大学を1954年に卒業した。1954年から1957年まで米国海軍飛行士として兵役に就き、全米海軍レスリング・チャンピオンとなった。
アイゼンハワー政権時代の1957年に、オハイオ州選出連邦下院議員の総務担当補佐官として、ワシントンDCへ移った。その後、一時、投資銀行に勤務したが、1962年に30歳でイリノイ州から連邦下院議員に選出され、1964年、1966年、1968年にも再選された。
1969年、4期目に議員の職を退き、ニクソン政権で以下のポストに就いた。
- 大統領府経済機会局局長、大統領補佐官、大統領顧問団(Cabinet)のメンバー(1969 - 1970年)
- 大統領顧問、大統領府経済安定プログラム・ディレクター、大統領顧問団のメンバー(1971- 1972年)
1974年8月、ワシントンに戻り、フォード政権で以下のポストに就いた。
- ジェラルド・R・フォード大統領の政権移行委員会委員長(1974年)
- 大統領首席補佐官、大統領顧問団のメンバー(1974 - 1975年)
- 第13代国防長官(米国史上最年少の国防長官)(1975 - 1977年)
約20年間公職を務めた後、ワシントンを去り、プリンストン大学のウッドロー・ウィルソン国際問題大学院およびノースウェスタン大学のケロッグ経営大学院で1学期間教鞭を執ったが、その後実業界に入る。1977年から1985年まで、世界的な製薬会社、G・D・サール&カンパニーの最高経営責任者、社長、そして会長を務める。同社の業績好転に大きな成功を収めた功績により、「ウォール・ストリート・トランスクリプト」(1980年)および「ファイナンシャル・ワールド」(1981年)両誌から、「製薬業界における優秀最高経営責任者賞」を授与された。
1990年から1993年まで、ゼネラル・インスツルメント・コーポレーション(GI)の会長兼最高経営責任者を務めた。GI社は、ケーブル、衛星、および地上放送用の広帯域通信・配信・アクセスコントロール技術のリーダーであり、完全デジタル高品位テレビ(HDTV)技術開発の先駆者である。ラムズフェルドは、同社の株式を公開し、経営を黒字転換させた。
ラムズフェルドは、実業界にいる間もさまざまな公職に就いた。
- レーガン政権の軍備管理に関する大統領諮問委員会委員(1982 - 1986年)
- レーガン政権の海洋法条約特使(1982 - 1983年)
- レーガン大統領の戦略システムに関するパネル上級顧問(1983 - 1984年)
- レーガン政権の日米関係に関する米国合同諮問委員会委員(1983 - 1984年)
- レーガン政権の中東特使(1983 - 1984年)
- 公務に関する全米委員会委員(1987 - 1990年)
- 米国経済委員会委員(1988 - 1989年)
- 米国国防大学理事(1988 - 1992年)
- 日米関係委員会委員(1989 - 1991年)
- 連邦通信委員会(FCC)高品位テレビ諮問委員会(1992 - 1993年)
- 米国に対する弾道ミサイルの脅威に関する委員会委員長(1998 - 1999年)
- 米国貿易赤字調査委員会委員(1999 - 2000年)
- 国家安全保障宇宙管理組織評価委員会議長(2000年)
市民活動としては、米国行政協会会員、およびシカゴ歴史協会、ジェラルド・R・フォード財団、アイゼンハワー交流奨学基金、スタンフォード大学フーバー研究所、国立公園財団、ランド研究所の理事を務めた。また、米露ビジネスフォーラムのメンバー、および米国議会指導者団の国家安全保障顧問グループの議長も務めた。
1977年には、米国市民として最高の栄誉である自由勲章を授与された。


大使のスピーチ・寄稿