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予備選挙と党員集会

代議員獲得への戦い

ジェームズ・T・マクドナウ

 米国では、大統領選挙年の年はじめに、民主主義世界で有数の長い政治マラソンが始まる。州の予備選挙と党員集会を通じて、2大政党が正式に大統領候補を指名する過程が始まるのである。

米国の大統領選挙 2004
はじめに

2004年大統領選挙の日程

米国における政党

大統領候補者指名と米国の民主主義

米国選挙手続き

トーマス・マンとのインタビュー: 2004年選挙戦

連邦議員選挙

世論調査、専門家、そして2004年選挙

選挙資金の現状

* 予備選挙と党員集会

* 大統領候補を選出する2大政党の全国大会

* メディアと2004年選挙

* 若い有権者は経済、国家安全保障に関心

* 若い有権者の動員 NGO その他の組織の役割

米国の選挙人団 (州別選挙人数)

* 選挙人団に関するFAQ

* 選挙資金についての基礎知識

選挙関連用語集

歴代大統領のポートレート

参考文献・ウエブサイト

* 印のものは国務省ウェブサイト「U.S. Elections 2004」 掲載の記事ではありません

 共和党と民主党はそれぞれ4年ごとに、自党の正副大統領候補を選出し、党の国家プログラム、つまり綱領を承認するために全国指名大会を開く。全国大会に出席する代議員は全50州とコロンビア特別区から選出される。予備選挙制度とは代議員の選出方法のことである。

 

初期の選出方法

 代議員の選出は、大統領選挙において州が果たしている中心的な役割を反映している。合衆国憲法には政党に関する規定がないため、党の大統領候補指名制度は、試行錯誤しながら変化してきた。変化の指針となってきたのは民主化であった。最初、大統領候補は各州の連邦議員によって選出されていた。1832年、民主党の州議員は、少数の連邦議員による指名過程の支配を打破するため、全国指名大会の開催を求めた。この改革への動きは、連邦議会の民主党議員が1828年の大統領選挙でアンドリュー・ジャクソンヘの支持を拒否したことに端を発していた。1840年までに、米国の2大政党は大統領候補選出のために全国大会を開催するようになった。2大政党の州支部は、全国党大会の代議員選出方法に関してフリーハンドを与えられた。2大政党の代議員選出方法に関しては、ごく限られた規定しかなく、代議員は通常、各州の党幹部により選出されていた。実際、多くの代議員は党の有力者がほとんど自由に選んでいた。

 19世紀が終わる頃になると、選出過程に対する批判が吹き出した。州の党幹部に支配されているシステムに対して、反発が強まり始めた。ウィスコンシン州は1905年に、全党員に開かれ州全体で実施される公費による選挙、つまり予備選挙を通じて代議員を選出することを政党に義務づけた最初の州となった。この法律は、公的な組織ではなく私的な組織である政党が執り行う選挙に初めて公費が充てられるという点で、米国政治における画期的な出来事であった。予備選挙は一般有権者に指名過程への参加の道を開くことになり、党幹部の権力に打撃を与えた。他の州もウィスコンシンにならい、1916年までには26州が予備選挙を実施するようになった。しかし同年以降、党幹部は自己の支配を再び主張し始め、その結果、予備選挙を実施する州の数が20を切った。こうした状況は現代の改革まで続いた。

 

改革

 1964年の民主党大会で、党幹部による支配の問題が再び持ち上がった。黒人が圧倒的に多いミシシッピ州自由民主党員たちは、州の党幹部が選んだ白人多数の代議員団の代わりに、自分たちが全国大会へ出席することを要求したが、受け入れられなかった。4年後、代議員選出制度は民主党大会で再びやり玉にあがった。ベトナム反戦を掲げる候補者、ユージン・マッカーシーとジョージ・マクガバン両上院議員は、予備選挙で多数票を獲得して、全国大会に臨んだ。しかし、ジョンソン大統領の戦争政策を支持し、州の予備選挙にまったく出馬しなかったヒューバート・ハンフリー副大統領が、予備選挙を実施しない州の党幹部を通じて獲得した票を基盤に、指名を獲得した。ハンフリーは結局落選したが、彼の指名は民主党全体に代議員選出過程の本格的な改革を要求する声を巻き起こした。

 その結果、民主党は1972年の大統領予備選挙で、多くの有権者を選出過程に参加させるために全国的に適用されるルールを導入した。新代議員選出ルールは、次の2つの基本原則に基づいて設定された。(1)指名過程を開放して、多数の党員が十分に参加できるようにするための真剣な努力。(2)指名過程は、代議員選出に参加した人たちの大統領候補の選択を「公正に反映」すべきである、という信念。第1の原則に関しては、指名大会に出席する代議員の半分は女性であることと、マイノリティー(アフリカ系アメリカ人、ヒスパニック、アジア系、アメリカ先住民)をその米国の総人口に占める割合に見合う数で代議員に選出する「誠意ある」努力をするよう、党は勧告した。「公正な反映」を確保するために、民主党は(当時実施されていた「勝者独占方式」に対して)各州で獲得した得票率に基づいて代議員を大統領候補に割り振る制度を導入した。

 もう1つの改革は、州の予備選挙または党員集会で支持した候補者に全国大会でも投票するという誓約書に署名することを代議員に義務づけたことだった。こうした「民主化」改革は意図しない結果をもたらした。予備選挙で選出される代議員の割合が増え、1980年の全国大会では全体の72%にも達した。党組織から一般有権者への権限の分散が機能不全をもたらすのではないかという党幹部の懸念に応えるために、民主党は全国大会への代議員の20%近くを、すべての民主党知事、上院議員、下院議員、民主党全国委員会委員を含む「職権上の代議員」に割り当てることにした。

 共和党は、民主党の例にならって、代議員選出のための詳細な全国的ルールを導入するということはしなかった。その代わりに、共和党は最低限必要なことだけを行うという道をとり、各州に選出過程の決定を任せた。全国レベルでの共和党は、女性やマイノリティーに関して何ら義務づけられていない。しかし多くの州は、大統領予備選挙の導入を承認するにあたり、民主党の改革の大部分をとり入れており、それは両政党に適用されている。

 連邦政府は1976年に、経済的に公平な土俵を生み出す試みとして、予備選挙資金のマッチングファンド(公費折半補助金制度)を導入して、改革をさらに推進した。この制度のもとで連邦政府は、候補者への個人の献金総額に対し、250ドルを上限として、同額の資金を有資格の候補者に拠出する。この制度の有資格者になるためには、候補者は最低20州でそれぞれ5000ドル以上の資金を調達しなければならない。

 1984年の全国指名大会を控えて、民主党は代議員選出過程を若干閉鎖的にした。州予備選挙の代議員への出馬に気乗り薄な、公選公職者たちからの圧力を受けて、民主党は、各州に代議員の追加を認め、それらの代議員は事前に特定の候補者への支持を誓約しなくてもよいことにした。これらの「誓約をしなくてもよい代議員」つまり「スーパー代議員」になれるのは、民主党の連邦議員(上下両院)、知事、州の民主党全国委員会委員だけだった。スーパー代議員を設けることで、民主党は党のエリートに権限の一部を返還し、州の予備選挙または党員集会でどの候補者も代議員の過半数を獲得できなかった場合には、党のエリートがかつてのようにキングメーカーとしての役割を果たす可能性を開いたわけである。1996年の全国大会では、全代議員の18%が「誓約をしなくてもよい代議員」つまり「スーパー代議員」で占められる一方、予備選挙で選ばれる代議員は約68%に減少した。

 1996年には、42の州(共和党は民主党に比べて予備選挙が多い)が全国大会への代議員を選出するために予備選挙を実施した。それ以外の代議員は党員集会で選ばれた。党員集会での代議員選出には段階がある。第1段階では、民主党と共和党は、投票区と言われる地元の選挙区で別々に集会を開く。ここで次の段階、郡大会のための代議員を選出する。郡大会は通常、投票区での選出の1ヵ月後に開かれ、州または下院選挙区の党大会のための代議員を選出する。それらの大会において最終的に、党の全国指名大会で州の代表として出席する代議員が選ばれる。

 

戦術と戦略

 党の指名を獲得するために、候補者は自分に投票してくれるよう代議員を説得しなければならない。代議員は人口に基づいて各州に割り当てられる。つまり、人口が多いほど、代議員の数も多くなる。例えば、カリフォルニア州は最も人口が多く、1988年の民主党全国大会で336人の代議員を割り当てられた。一方、最も人口が少ない州の1つ、アラスカ州はわずか17人だった。各州の予備選挙または党員集会で代議員を獲得するために、各候補者は全国大会で自分を支持してくれると誓約している代議員名簿を提出する。従って、有権者は予備選挙で投票する際、自分が望む大統領候補を代表する代議員達を選ぶことになる。

 候補者は最初の予備選挙と党員集会が実施されるかなり以前から、通常少なくとも1年前から、指名獲得運動を始める。4年近くも余り目立たない形で運動を続ける大統領候補者もいる。

 早くからスタートするのには、数多くの理由がある。候補者は選挙費用の大半を調達しなければならない。しかし連邦法は、個人やグル一プがこうした選挙運動に献金できる額を制限している。そのため候補者は、比較的小額の献金を比較的多数の人びとから集めるための時間を必要としているのである。

 早期に出馬する第2の利点は、候補者が選挙を戦う多くの州で地元に根をおろした組織を確立するための時間を稼げることにある。もはや党幹部の推薦は勝利への手形とはなりえない。電話作戦を展開し、戸別訪問を行い、選挙運動用のチラシを配布し、また支持者を党員集会や予備選挙へ駆り出すためには、地元をベースとした大きな組織が必要であるとともに、そうした州での活動を調整する全国的な事務所も必要となってくる。

 特定の聴衆に的を絞って訴えかけることは、特に重要である。候補者は地元のマスコミに全力を集中する。記者や編集者の取材に応じ、自党の対立候補とテレビ討論をし、演説や声明がマスコミに最大限報道されるようタイミングを計り、ラジオやテレビのコマーシャルの時間を買ったりするのである。

 タイミング、資金、組織、コミュニケーションなどこうしたすべての要因は、代議員の獲得に影響を及ぼすことになる。

 候補者は代議員の絶対多数さえ獲得すればいいのだから、すべての州の予備選挙や党員集会で勝利を得る必要はないし、それらすべてに出馬する必要さえない。また各州やコロンビア特別区に等しく時間や資金を費やす必要もない。むしろ、候補者は指名獲得にちょうど必要な代議員を獲得するための戦略をとる。

 

ニューハンプシャーから全国大会まで

 民主党の代議員を選出するすべての予備選挙と末端の党員集会は、1996年の場合、3月第1火曜日から6月の第2火曜日のあいだに実施されねばならなかった。アイオワとニューハンプシャーの2州は、この「日程表」から正式に外されている。共和党には「日程表」はなく、3月の第1火曜日の前に9つもの党員集会または予備選挙を開く可能性さえあった。しかし、両党とも最初の党員集会と予備選挙は、アイオワ州とニューハンプシャー州でそれぞれ実施した。日程表以前に行われるこれらの最初の予備選挙は、その後の選挙戦に影響を及ぼしかねないので、重要な意味を持ちうる。

 最初の一連の党員集会や予備選挙で勝つことによって、または、メディアの予想よりも善戦しただけでも、知名度の低い候補者や「穴馬」的な候補者が、瞬く間に全国的に知れ渡り、その後の予備選挙で全国的な知名度をもつ有力候補者を打ち負かす弾みをつけることもありうるのである。このため、全国に先駆けて党員集会が行われるアイオワと最初の予備選挙が行なわれるニューハンプシャーは、大統領候補指名過程に極めて大きな影響を及ぼす。これは、たとえばニューハンプシャーの場合は、全国有権者のわずか0.25%にすぎないにもかかわらず、である。

 各州は、選挙の日程表内で最初に予備選挙や党員集会を実施する州になろうと画策する。これは「フロント・ローディング」と呼ばれる。1988年には、約20州(その内14州は南部諸州と境界諸州)が同じ3月の第1火曜日に予備選挙か党員集会を実施した。これをマスコミは「スーパーチューズデイ」と呼んだ。これらの州は、自分達の州から選出される代議員の数が多い故に、選挙過程において自分たちの地域がより大きな影響力を握ることができ、それによってこれらの州が重要だと考えている問題に候補者が取り組まざるをえなくなることを願ったのである。それ以降、フロント・ローディングの州が増え続け、1996年には代議員の17%が3月の第1火曜日に、35%が3月の第2火曜日までに、77%が3月末までに選出された。1996年においてフロント・ローディングの傾向に大きな影響を及ぼしたのは、カリフオルニア州が大統領予備選挙を6月から3月26日に変える決定をしたことだった。従って、民主、共和両党の候補者が4月1日以前に選出され、夏の全国大会はこれらの決定を単に追認するにすぎなくなる公算が大であった。

 1995年11月の時点で、共和党で党の指名を真剣に狙っている大統領候補者が10人いた。一方、民主党では、党指名を求めて現職のビル・クリントン大統領に挑戦する有力な対抗馬は現われないだろうと予想された。共和党の場合、候補者が非常に多いため、はっきり過半数を獲得して全国大会に臨む候補者はいない可能性があった。その場合には、誓約した代議員は1回目の投票のあと自由に支持者を変えることができる。これはブローカード・コンベンションと呼ばれ、過半数を得るために、他の候補者を支持している代議員を獲得するための取り引きが行なわれる。

 党の全国大会へ向けて代議員を選出する過程は、1968年以来、劇的に変化してきた。選出過程は、一般市民の参加の裾野を広げることを意図した改革のおかげで、一般党員により開かれたものになった。こうした改革が予備選挙と予備選挙で選ばれる代議員の数を増やし、その結果、予備選挙と党員集会は党の指名獲得のカギになり、たとえ現職の大統領であっても、それを避けることはできなくなった。

 

ジェームズ・T・マクドナウ(James T. McDonough)は、ワシントンを拠点にするフリーライター。長年、プエルトリコのサンファンに在住し、サンファン・スター紙、エル・レポルテロ紙、プレンサ・リブレ紙に記者と編集者として勤務した。

* 本稿はUnited States Elections 1996 (USIA, 1996)に掲載の"Primaries and Caucuses: The Struggle for Delegates" を仮訳したものに、一部編集を加えたものです。