
*下記の日本語文書は参考のための仮翻訳で、正文は英文です。
米国国務省民主主義・人権・労働局発表
2009年2月25日
前書き
人類の進歩は、人間の精神にかかっている。この避けられない真実が、今日ほど明らかになったことはない。今日は、新たな世紀の課題に直面し、私たちの国や世界を前進させるために、人間のあらゆる才能を結集させる必要がある。
あらゆる男性、女性、子供が社会への完全参加を果たし、神から与えられた可能性を発揮する権利を保障することは、建国以来米国を活気付けてきた理想である。この理想は、国連世界人権宣言に正式に記されており、また、オバマ大統領の就任演説でも示されていた。演説の中で大統領は、どの世代も「すべての人は平等かつ自由であり、最大限の幸福を追求する機会に値する」という信念を受け継いでいかなければならないことを私たちに思い出させてくれた。
米国の外交政策もまた、こうした時を超えた価値観を促進するものでなければならない。このような価値観があることによって、人々は言論、思想、信仰、集会の自由を持ち、尊厳ある労働生活と家庭生活を送り、より明るい未来の夢に手が届くことを認識できるようになる。
人権の促進は、米国の外交政策の不可欠な要素である。私たちは、米国内で私たちの理想に従って生きるために努力するだけでなく、世界中のほかの国々や人々とかかわる中で人権の尊重の更なる促進にも取り組むつもりである。私たちの取り組みの一部は、政府間協議や公式対話を通じて行われることになる。そして、これは、この大きな目的を推進するために重要なことである。しかし、私たちは、人間の精神を弱め、人間の可能性を制限し、人類の進歩を妨げる圧制や征服に打ち勝つために、ひとつの方法だけに頼るつもりはない。
私たちはこの取り組みを、政府だけではない、世界的な活動へと拡大するつもりである。米国は非政府組織、企業、宗教指導者、学校や大学、そして個々の市民と協力していく。こうしたすべての人々は、人権が認められ、尊重され、保護される世界をつくる上で不可欠な役割を果たしている。
米国が人権に対して強い姿勢を取る原動力は、私たちの倫理的価値観への信頼と、他国の人々が暗闇や束縛から脱却し、私たちが享受し大切にしている機会と権利を獲得するとき、それが私たち自身の安全、繁栄、進歩を促進することになるという理解である。
以上の精神に基づき、私はここに国務省の「2008年国別人権報告書」を米国連邦議会に提出する。
国務長官
ヒラリー・ローダム・クリントン
序文
2008年の特徴として、3つの傾向が見られた。個人と政治の自由拡大への要求が世界的に高まったこと、これらの自由に政府が抵抗しようとしたこと、活気ある市民社会が存在する参加型民主主義国家において人権が最も発展することがさらに確認されたこと、である。
連邦議会により義務付けられた以下の報告書は、2008年における世界各国の人権に関する国際的な約束の実施状況を述べたものである。本報告書が、人権侵害行為に注意を向け、これを終わらせるための行動を起こす一助になることを願っている。同時に、本報告書に記録された、困難を経て獲得した人間の自由の前進が、多くの場合極めて強い抵抗に合いながらも、今も自らの権利を主張している人々を勇気づけることを願う。
本報告書は、米国政府の政策決定のために情報を提供するとともに、諸外国の政府、政府間機関、非政府機関(NGO)、個人、およびメディアのための参考文書にもなる。米国の外交政策は、効果的な防衛だけでなく、力強い外交や、政治的・経済的発展への積極的支援も中心として展開する。積極的な人権政策は、米国の価値観を再確認するとともに、米国の国益を促進する。オバマ大統領は就任演説の中で次のように述べている。「米国はそれぞれの国の友人であり、平和と尊厳のある未来を求めるすべての男性、女性、子どもの友人である」が、「腐敗、偽り、そして異論を封じることによって権力にしがみつく者たちは、自分たちが歴史の誤った側にいること、そして握ったそのこぶしを開くのならば、私たちが手を差し伸べることを知るべきである」
米国は建国以来、不正を正し、すべての米国民のために基本的自由の尊重を全面的に促進するよう努力してきた。これらの努力は、責任ある民主的統治制度、法の支配、活気ある自由なメディア、そして最も重要な、米国民による市民活動によって促進され、維持されてきた。
本報告書の発行に当たり、米国国務省は引き続き、米国の人権実績に対する国内外からの批判に留意している。オバマ大統領が先に明確に示したように、「私たちは、安全と理想の間の二者択一を誤りとして拒絶する」。私たちは、政府、非政府を問わず、国際社会の他の参加者が米国の実績に関し見解を表明することを、わが国への内政干渉と見なすことはないが、他の政府もまた、その実績に関する意見の表明を内政干渉として見なすべきではない。米国を含むすべての主権国家は、国民の普遍的人権と自由を尊重する国際的義務を負っており、それらの義務が十分果たされていないと考えられる国に対し、率直な意見を述べることは私たちの責任である。
米国政府は、わが国の活動に対する懸念に今後も耳を傾け、率直に答えてゆく。また、米国は、自らが締約国となっている各種の人権条約に基づく義務に従い、各国際機関に今後も継続して報告書を提出する。米国の法律、政策、活動は、近年大きく進化しており、今後も進化し続ける。例えば、2009年2月22日にオバマ大統領は、グアンタナモの収容施設を閉鎖し、勾留と尋問に関する米国の政策を見直すために3つの大統領命令に署名した。
本報告書に含まれる情報は、各国政府や多国間機関、国内外の非政府団体、学者、法学者、宗教団体、メディアから得たものである。本報告書は、高度な正確さと客観性を確保するために、長い事実確認作業を経ている。各国の報告書は、それぞれの状況を明確に説明している。しかしながら、いくつかの幅広い分野横断的な所見も得られる。
その1 2008年には、世界中の多くの国で、個人および政治の自由拡大への要求に対する抵抗が続いた。憂慮すべき数の国々が、NGOや、インターネットを含むメディアに、煩わしい、制限的、あるいは弾圧的な法律や規則を課した。自らや同胞の権利を平和的手段で要求した、多くの勇敢な人権活動家が、嫌がらせや脅迫を受け、逮捕や投獄、殺害され、あるいは法的手続きによらない暴力的な報復措置を受けた。
その2 人権侵害行為は、依然として、政治制度の一層深刻な機能不全の兆候である。最も深刻な人権侵害行為は、説明責任を負わない支配者が制限されることなく権力を行使する国、あるいは政府が機能していない、あるいは崩壊した国(国内外の紛争によって悪化する、あるいは引き起こされる場合が多い)で発生する傾向にある。
その3 健全な政治制度は、人権を尊重する可能性がはるかに高い。人権が最も保護され尊重される国には、特徴として、次のような選挙面、制度面、社会面の要素が見られた。
- 自由で公正な選挙プロセス。選挙日に公正な投票と正直な集計が行われるだけでなく、真の競争と、言論、平和的な集会、結社の自由の全面的な尊重を可能にする投票前の準備期間があること。
- 法の支配の下、選挙で民主的に勝利した指導者が民主的な統治を行い、国民の意思とニーズに敏感に対応することを確実にする、独立した司法機関を含む、透明で民主的な、責任ある代議制統治機関。
- 独立したNGOと自由なメディアを備えた、活気ある市民社会。
確かに、これらの要素が存在する国においても、人権侵害行為が発生する場合があった。民主的選挙が不正行為によって損なわれる可能性がある。また、権力の乱用や誤審が起こることもある。民主的な統治機関が脆弱で、経済的に苦しむ国家は、国民のより良い生活へのニーズや期待をなかなか満たせない場合がある。腐敗は、国民の信頼を弱めることになりかねない。長期にわたり社会の主流から取り残された人々が、自分の国の生活に全面的に参加できないでいる国もある。国内または国境を越えた紛争によって生じる不安定は、人権の尊重を妨げその進展を遅らせることもある。しかし、これらの選挙面、制度面、社会面の要素が確保されれば、問題に取り組み、是正措置が実施され、改善が行われる可能性ははるかに大きくなる。
これらの3つの傾向を総合すると、米国が、自国の人権実績を慎重に精査すると同時に、活発な外交を展開して、人権侵害行為を防止するために行動し、率直に発言することが引き続き必要であることが確認できる。また、これらの傾向から、外交と、健全な政治制度の発展を助け市民社会を支援する創造的戦略とを組み合わせる必要性があることも確認できる。
以下に、地理的地域ごとの主な傾向の概要を述べる。各地域の概要に続き、2008暦年に特筆すべき展開(前進、後退、あるいはその両方)があった国々を選んで、アルファベット順に簡潔に論評した。より包括的で詳細な情報については、国別報告書に記載する。
地域別概要
アフリカ
アフリカの数カ国は、アフリカ大陸における安定勢力として、また法の支配を尊重することで平和と安定が実現することを示す、効果的な模範としての役割を果たした。それでもなお、2008年には、当地域における人権と民主主義の前進は、特に、紛争やその他の問題で苦しめられ、法の支配の文化が未熟または存在していない多くの国において、引き続き厳しい課題に直面した。
多くの国で、刑事免責を受けて活動する政府の治安部隊が人権侵害行為を行い、一般市民がその被害を受ける状況が続いた。数カ国では、被勾留(こうりゅう)者や囚人に対する治安部隊の組織的な拷問の使用が依然として深刻な問題であり、多くの場合、収容施設や刑務所の環境は不潔で、生命に危険が及ぶ状態であった。多くの被勾留者は審理前に長期にわたり勾留され、裁判が始まるまで何カ月あるいは何年も待たされた。
紛争に巻き込まれた国々にとって、暴力の終結が、人権状況を改善する上で、依然として最も重要なことであった。紛争当事国は、平和と安定をもたらす政治的合意を実施できなかった。コンゴ、ソマリア、およびスーダンで暴力的な紛争が続き、あるいは新たに勃発し、一般市民の大量虐殺、強姦、難民化を引き起こした。スーダン政府は、ジャンジャウィード民兵組織との連携を続けて村落を爆撃して破壊し、さらに何十万人もの罪のない村民を殺害あるいは追放した。
独裁主義支配が、多くのアフリカ諸国で引き続き見られた。いくつか例を挙げると、ジンバブエでは、3月29日に自由でも公正でもない選挙が行われたあと、ムガベ政権がテロ活動を展開し、その結果何百人もの野党メンバーと支持者が殺害され、失跡し、拷問にかけられた。また、政府の弾圧、制限、管理の失敗により、何万人もの難民が生まれ、食糧不安が増大し、コレラが流行して2008年末までに1500人の死者を出すに至った。以前延期されたコートジボワールの大統領選は、さらに延期された。モーリタニアでは、民主的に選出された政府がクーデターによって追放された。ギニアで長年大統領の座にあったランサナ・コンテの死後、軍事政権がクーデターを起して権力を握り、憲法を停止した。
しかしながら、2008年には明るい兆しもいくつか見られた。アンゴラは1992年以来初めて選挙を実施し、ガーナとザンビアでは平和的で秩序ある民主的な選挙が実施された。ナイジェリアでは、2007年の大統領選の対立候補がウマル・ムサ・ヤラドゥア大統領の選出を支持する最高裁判所の決定を尊重し、正当な法の手続きと法の支配の尊重が浸透した。国連ルワンダ国際戦争犯罪法廷は、1994年のルワンダ大虐殺で80万人のツチ族と穏健派のフツ族の殺害に関与した過激派グループを組織した罪で、元ルワンダ陸軍大佐を終身刑に処した。
特定の国における動向
コンゴ民主共和国における人権状況は、2008年にさらに悪化し、2006年の国政選挙以来見られた進展がひどく損なわれた。1月のゴマ和平協定の調印と国連平和維持軍の駐留にもかかわらず、1年を通じて南北キブ州で戦闘が継続された。治安部隊やすべての武装集団は刑事免責を受けて活動を続け、恣意(しい)的殺人、失跡、恣意的逮捕や勾留、拷問、強姦、略奪、戦闘員として子どもを利用するなど、深刻な人権侵害行為を頻繁に行った。この紛争は、アフリカにおける最悪の人道的危機をあおり続けた。その結果、毎月4万5000人ものコンゴ人が死亡し、合計100万人を超える国内避難民が発生し、武装集団による人道支援活動家への攻撃が数十回も行われた。性的暴力は広がり続け、北キブ州だけでも6月に2200件以上の強姦事件が報告された。治安部隊による国内の人権活動家やジャーナリストへの嫌がらせ、殴打、脅迫、逮捕は全国で見られ、その結果、報道の自由が著しく低下した。
エリトリアの芳しくない人権実績はさらに悪化し、政府は、刑事免責を受けた治安部隊による非合法的な殺人など、深刻な人権侵害行為を続けた。与党である「民主主義と正義のための人民戦線(PFDJ)」は唯一の合法的な政党であり、エリトリアが1993年に独立して以来、国政選挙は一度も実施されていない。1997年に承認された憲法は、まだ施行されていない。独立系メディアは依然として禁止されており、独立系ジャーナリストのほとんどは、勾留中か国外逃亡していた。政府による徴兵忌避者の検挙が2008年に激化した。信頼できる報告書には、徴兵忌避者が勾留中に拷問を受け、治安部隊がエチオピアとの国境を越えようとした人々に発砲したことが記載されている。既に厳しく制限されていた信仰の自由は、さらに低下した。2008年末時点で、政府に未登録の宗教団体に所属する3200人以上のキリスト教徒と35人以上のペンテコスタル教会の指導者や牧師が刑務所に勾留されており、そのうち数人は起訴されることも、正当な法の手続きを受けることもなく、3年以上も勾留されている。2008年には少なくとも3人の宗教関係の囚人が、拷問や十分な治療が受けられなかったことにより、勾留中に死亡した。
ケニアで、2007年12月の地方議員選挙、議会選挙、大統領選挙後に起きていた暴動は、国際調停手続きにより連立政権をつくることで合意したため、2月に終結した。この連立政権の下で、ムワイ・キバキ大統領はその職を続け、対立候補のライラ・オディンガは、新設された首相職に任命された。こうした政治的解決の結果、約1500人の死者と50万人を超える避難民を発生させた暴動の根本的原因を調査し、これに対処するために、改革の枠組みが設けられた。改革の進展は遅く、暴動による経済的・社会的影響への取り組みは完了しなかった。一方、虐待行為を行う民兵組織の鎮圧を目的としたエルゴン山への治安部隊の派兵は、治安部隊が人権侵害行為を行うという結果に終わった。
モーリタニアの人権実績は、国民が政府を変える権利をはく奪され、恣意的逮捕が行われ、8月6日のクーデター後に大統領と首相が政治的被勾留者となったことから、悪化した。大統領は12月に勾留を解かれた。しかしながら、2008年末時点で、高等国家評議会(HSC)として知られる軍事政権が、モハメド・アジズ将軍を国家元首として、権力を維持した。アフリカ連合を含む国際社会のメンバーは、このクーデターを強く非難した。8月6日のクーデター前、民主的に選出された当時の政府は、新しい反奴隷法を全国的に認知させる活動を支持し、以前はタブーであった、民族の分裂や社会的不公正などの問題について公の議論を増やした。当時の政府はまた、1989~91年に起きたアフリカ系モーリタニア人の追放問題に関して、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)と連携して本国帰還プログラムを開始し、国の調停活動を支援した。
ナイジェリアでは、司法部門が、重大な欠陥が見られた2007年の大統領選挙、知事選挙、および議会選挙の結果についての裁定を続けた。12月12日に、最高裁判所は、野党の主要大統領候補2人の上訴を棄却し、ヤラドゥア大統領の選出を支持した。この2人の野党指導者は、裁判所の判決を尊重した。2008年には、選挙裁判所が9件の上院選挙と11件の知事選挙の結果を無効とした。原油の産地であるニジェールデルタ地域で暴力が続き、2008年にはおよそ100件の誘拐事件が発生し、400人以上(ナイジェリア国民と国外居住者)が誘拐された。11月にはジョスで民族宗教的暴動が勃発し、数百人が殺害され、何万人もの避難民が発生した。汚職は資源豊かなこの国を悩まし続け、汚職の疑いがある連邦、州、地方の職員の起訴がほとんど進まないまま、経済金融犯罪委員会の汚職対策活動が弱まった。
ソマリアでは、暫定連邦政府(TFG)・エチオピア国防軍とその民兵、イスラム法廷連合の民兵、反政府および過激派グループ、テロ組織、および氏族民兵の間の戦闘で、1000人以上の一般市民が殺害され、何十万人もの避難民が発生し、誘拐や失跡、ジャーナリスト、援助活動家、市民社会団体の指導者、および人権活動家などへの攻撃が行われるなど、人権侵害行為が広がった。ソマリアに平和と安定を築くための政治的プロセスは、6月9日にTFGとソマリア再解放連盟がジブチ合意に達し、その条件の実施を開始したことで、継続された。しかし、実施には時間がかかり、政治的内紛によって損なわれた。
スーダンでは、ダルフールの紛争が5年目に入り、一般市民が引き続き大量虐殺の影響に苦しめられた。2008年の国連のデータによると、この長引く紛争の開始以来、270万人の以上の人々が国内避難民となり、さらに25万人が国境を越えてチャドに避難した。政府、政府と連携した民兵、および部族間の攻撃によって一般市民が殺害された。政府軍は村落を爆撃し、国内避難民を殺害し、民兵組織と協力して村落を壊滅させた。政府は人道活動の阻止や妨害を組織的に行い、反乱軍や強盗が人道援助に携わる人々を殺害した。正体不明の襲撃者がアフリカ連合と国連の合同平和維持軍の兵士を数人殺害し、政府軍が平和維持軍の護衛部隊を攻撃した。5月10日に、ダルフールの反政府組織「正義と平等運動」が、ハルツームに近いオムドルマンを攻撃した。この攻撃の後、オムドルマンとハルツームで、政府が、政治的・民族的動機に基づいて大勢の人々を勾留し、多数の人々が失跡した。政府は、直接的な日々の検閲などの手段によって、報道の自由を厳しく制限した。北部と南部の間で包括和平合意(CPA)が調印された2005年以来、およそ210万人の避難民と難民が南部に帰還した。しかし、CPAの実施をめぐる緊張は続き、北部軍と南部軍の間の戦闘によって、アビエの町のほとんどが破壊されて、一般市民が殺害され、5万人以上が避難民となった。
ジンバブエの違法政府は、組織的に人権侵害を行った。2008年には、弾圧、汚職、そして人道的に悲惨な結果を招くにもかかわらず、ムガベ政権が執拗(しつよう)に取り続けた破壊的な経済・食糧政策によって引き起こされた人道的危機が高まるにつれ、人権侵害が劇的に増加した。国民の権利の保護と人命救助を目的に人道支援活動を行う市民社会や人道支援組織は、政府と過激派グループの標的にされた。ほぼ3カ月にわたるNGOの活動禁止により、人道的危機が高まるとともに、食糧不安と貧困がさらに進んだ。活動禁止が解除された後も、ムガベ政権は、引き続き人道支援を受けることを妨害した。2008年末時点で、何百万人ものジンバブエ国民が食糧不足の状態にあった。
ジンバブエ政権が、脅迫、暴力、汚職、票の買収の手段を通じ、大統領選挙などの政治プロセスを操作したことで、政府を変える国民の権利が否定された。治安部隊と与党支持者は、刑事免責を受けて、野党メンバー、学生のリーダー、市民社会の活動家、およびジンバブエの一般市民の殺害、誘拐、拷問を行った。野党の民主変革運動(MDC)派が、3月29日の選挙で議会の過半数を獲得したが、大統領選の結果は5月2日まで発表されす、ジンバブエ選挙管理委員会の信頼性と独立性が疑問視される結果となった。6月27日の決選投票までの間に政府が支援して行われた暴力行為によって、190人以上が死亡し、何千人もが負傷し、何万人もが避難民となった。ムガベ政権がMDCとその支持者に暴力を振るったため、自由で公正な選挙の実施は不可能と認識したことから、1回目の選挙で圧倒的な得票差をつけて勝利したMDCの候補モーガン・チャンギライが選挙戦から撤退した後に、選挙管理委員会は、ムガベが決選投票の勝者であると宣言した。南部アフリカ開発共同体(SADC)が義務付けた交渉の結果、9月15日に権力の分担に関する合意に至った。しかし、政府が妥協しないため、2008年末の時点で合意条件は実施されておらず、ジンバブエの危機的状況は変わっていなかった。
東アジア・太平洋地域
2008年に、広大な東アジア・太平洋地域では、人権、特に過去の人権侵害行為についての説明責任、言論と報道の自由、民主主義の発展、人身売買の分野において、前進と後退が見られた。
この地域の国々では、過去の人権侵害のけじめをつける努力が継続された。1999年に東ティモール独立の直接住民投票が実施される前後に、インドネシア人とティモール人が共に犯した残虐行為を調査する目的で設立された2国間の真実・友好委員会が、2008年に最終報告書を提出した。インドネシアのユドヨノ大統領は、インドネシア軍に組織的責任があるとした報告書の結論を認め、これを受け入れた。さらに、1975~79年のクメール・ルージュ政権による重大犯罪の告発をより迅速に行うために、8月にカンボジア特別法廷が内部規則を改善した。しかし、年末時点でも裁判は開始されていなかった。
人権の尊重を守ろうとする国民の活動に対応して、弾圧を強める国もあった。ベトナムは言論と報道の自由の制限を強化し、中国では、政府が、チベット各地と新彊ウイグル自治区の少数民族に対する厳しい文化的・宗教的弾圧をさらに強めるとともに、反体制派や状況改善を求める人々の勾留や嫌がらせといった活動を強化した。
選挙で選出されていないその他の支配者は、自らの非合法性を虚偽の民主主義で覆い隠そうと試み、法律を自己の目的に合わせて変えた。ビルマ政権は、壊滅的な打撃を与えたサイクロン・ナルギスに襲われた直後に、憲法に関する国民投票を断行したが、その際に不正行為と脅迫がまん延した。憲法は形式的には5月に施行されたが、憲法の条項に従って、複数政党による選挙が2010年に実施されるまで、現政権が「国家主権を行使」し続けることになる。この憲法では、いかなる選挙の結果にもかかわらず、軍隊が引き続き政治上の優位な役割を果たすことが保証される。2008年末に、現政権は、2007年のサフロン革命に参加した民主主義活動家とサイクロン救援活動に参加した人々100人以上に極めて厳しい判決を下した。そのうちの多くは、家族から引き離されて、遠隔地の刑務所に移動させられた。フィージーでは、2009年3月の選挙の実施を拒否する暫定政府に対する反発が今にも噴出しそうな状態であるにもかかわらず、スバ高等裁判所が、2006年のフィージーのクーデターを正当とする判決を下した。
2008年に功罪相半ばする結果が見られたもうひとつの分野は、人身売買である。タイやカンボジアなど数カ国が、新たに人身売買を禁止する法律を制定し、労働搾取目的の男性の人身売買など、より幅広い人身売買犯罪の捜査と訴追を開始した。しかし、マレーシアでは、同国の入国審査官が、マレーシアとタイの国境でのビルマの難民の人身売買に関与しているというNGOやメディアの報告が広く見られる。
特定の国における動向
ビルマの軍事政権は圧制を続け、国民が政府を変える権利を否定するとともに、その他の重大な人権侵害行為を行った。ビルマ政権は、裁判なしの処刑、失跡、拷問などの手段を使って、反体制派を容赦なく弾圧した。人権活動家と民主主義活動家は嫌がらせを受け、多数が恣意的に勾留され、最高65年の懲役刑を宣告された。ビルマ政権は、被勾留者と囚人を生命にかかわる状態で拘束した。陸軍は、少数民族が住む地域への攻撃を続けた。ビルマ政権は、日常的に、国民のプライバシーを侵害し、言論、報道、集会、結社、信仰、移動の自由を制限した。女性や少数民族に対する暴力と差別が続くとともに、人身売買も続いた。労働者の権利は制限され、強制労働は続けられた。政府は、このような人権侵害行為の責任を負う者を訴追あるいは処罰するために、意義ある措置を全く講じなかった。ビルマ政権は、国民の福祉を軽んじ、何万人もの死者を出したサイクロンの直後に不正な国民投票を強引に実施し、多くの命を救った可能性のあった国際援助活動を阻止し遅延させた。
中国政府の人権実績は依然として芳しくなく、悪化した分野もあった。中国政府は、国民のプライバシーの権利を制限し続け、言論、報道(インターネットを含む)、集会、移動、および結社の自由を厳しく統制した。当局は、裁判なしの処刑、拷問、囚人に対する自白の強要を行ったり、強制労働を利用した。さらに、中国政府は、反体制派、状況の改善を求める者、人権擁護活動家、および被告側弁護士に対する勾留と嫌がらせを強化した。国内および国際的なNGOは、引き続き厳しい監視と制限を受けた。中国の人権実績は、チベット各地と新彊ウイグル自治区の少数民族に対する厳しい文化的・宗教的弾圧など、いくつかの分野で悪化した。人権侵害行為は、北京オリンピックやチベットの暴動など注目を浴びる出来事が起きたころにピークを迎えた。2008年末に、政府は、普遍的人権の尊重と改革を求めた「08憲章」の署名者に嫌がらせを行い、憲章の起草に参加したという理由で作家の劉暁波を逮捕した。10月には、外国人ジャーナリストにより多くの自由を与えた、オリンピック関連の暫定規則を正式な規則とした。
マレーシア政府は全般的に国民の人権を尊重した。しかし、国民が政府を変える権利の剥奪など、いくつかの分野で問題が見られた。野党は、与党が現職者としての力を悪用していると不満を訴えていたにもかかわらず、3月8日の選挙で議会の222議席のうち82議席を確保して大きく躍進し、事実上、自由に憲法を改正するために必要な3分の2の圧倒的多数を連立与党に与えなかった。政府は、引き続き報道、結社、集会、言論、および信仰の自由を制限した。また、野党指導者とジャーナリストを逮捕した。インターネットブロガーが、明らかに政治的な理由によって逮捕された。警察勾留中の死亡は、被勾留者に対する警察の虐待、すし詰め状態の入国者収容施設、根強い疑問が残る司法部門の公平性と独立性と同様、依然として問題である。移民労働者とインド系マレーシア人を強制労働によって搾取する雇用者がいたり、プランテーションで児童就労が行われることもあった。
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の人権実績は依然としてひどい状況にある。政権が国民生活のほとんどすべての側面を統制し続け、言論、報道、集会、および結社の自由を認めず、移動の自由と労働者の権利を制限した結果、北朝鮮の人権侵害の報告が頻度を増した。しかし、これらの報告を確認することは、依然として困難であった。裁判なしの処刑、失跡、および政治囚などに対する恣意的勾留の報告は、この孤立した国での生活が悲惨な状況にあることを伝え続けている。本国に強制送還された難民の中には、厳罰に処せられた人々、また拷問を受けた可能性のある人々もいるとされている。公開処刑が行われたとの報告も続いた。
政治的に混乱した状況にもかかわらず、タイは、憲法に反する統治の混乱を避けた。それでも、裁判なしの処刑と失跡に警察が関与しているという報告が続いた。警察による被勾留者や囚人の虐待は、警察内部の汚職と同様に続いた。南部の分離主義者の暴動の結果、マレー系イスラム教徒の暴徒、仏教徒の国防ボランティア、および政府の治安部隊による殺害など、数多くの人権侵害行為が行われた。政府は、特に不敬罪の規定を利用して、言論と報道の自由の制限をある程度維持した。適切な身分証明書類を持たない山岳部族の人々は、引き続き移動の制限を受けた。しかし、2008年2月28日に施行された2008年国籍法により、山岳部族の人々が市民権を得る可能性が高まった。
ベトナム政府は、引き続き国民の権利を著しく制限した。国民は、政府を変えることができず、反政府活動は禁止され、政府は反体制派を弾圧し続けた。人々は、政治活動を行った理由で恣意的に勾留され、公正で迅速な裁判を受ける権利を認められなかった。逮捕、勾留、および尋問の過程で、被疑者が虐待を受けた。汚職は、刑事免責と同様、警察の重大な問題であった。政府は、引き続き国民のプライバシーの権利と表現の自由を制限した。1年を通じて、報道の自由が全面的に弾圧された結果、報道機関の編集長が数人解雇され、2人の記者が逮捕された。これらの措置は、より積極的な調査報道に向かう動きをくじくことになった。集会、移動、および結社の制限は続いた。独立系人権団体は禁止された。女性に対する暴力と差別は、人身売買と同じく依然問題として残っている。政府は、労働者の権利を制限し、数人の労働運動家が逮捕、あるいは嫌がらせを受けた。
ヨーロッパおよびユーラシア
この地域では、主要な課題が依然として残った。それは、新たな民主主義国家を強化すること、人権NGO組織に対する政府の制限と弾圧を阻止すること、ヘイトクライム(憎悪に起因する犯罪)やヘイトスピーチ(憎悪発言)に取り組む一方で、人々の移動、愛国心の高まり、景気後退を背景にして基本的自由を守ること、である。
旧ソビエト連邦諸国の数カ国で、以前前進した人権と民主主義の後退が見られたり、独裁主義への傾斜が続いた。多くの選挙は欧州安全保障協力機構(OSCE)が設定した民主主義の基準を満たすことができず、報道の自由は依然として攻撃を受け続けた。ジャーナリストが殺害されたり嫌がらせを受け、多くの場合、法律は表現の自由を保護するというより、むしろ制限した。
8月に南オセチアのグルジア人分裂主義者の居留地で始まった紛争で、グルジア軍とロシア軍が、無差別攻撃を行い、多数のジャーナリストを含む一般市民の死者が出たと伝えられた。ロシア人が南オセチアに侵入した後、南オセッチアの非正規軍が、処刑、拷問、民族攻撃、無差別の民家焼き討ちを行い、この戦闘で少なくとも15万人のグルジア国民が避難民となった、という主張があった。ロシア軍と南オセチア軍は、南オセチアと、グルジアのもうひとつの分離主義地域であるアブハジアとの行政上の境界線の外側にある村落を占拠した。ロシア軍の大部分は、10月10日までに、アブハジアと南オセチアの外側にある地域から撤退したが、彼らは、グルジア人と国際機関が両地域に近づくことを阻止して、ここを住民にとって危険な地域とし、人権と人道法の順守に関してこの地域の状況を監視することを困難にした。
多くの国で、政府が報道の自由を妨げた。アゼルバイジャンでは、増加するジャーナリストへの攻撃は罰せられず、一方でジャーナリストは刑事責任を問われて投獄されたままであった。2008年には、ロシアは依然としてジャーナリストにとっては危険な場所であり、彼らの多くが殺害あるいは残虐な攻撃を受けた。ベラルーシでは、ルカシェンコ大統領が、インターネット出版を含め、報道の自由をさらに制限する可能性のある新メディア法に署名した。唯一残っていた全国ネットの独立系テレビ局「イメディ」の支配権を反体制派が失うなど、グルジアにおける動きは、メディアの多様性の状況について重大な懸念を生んだ。
数カ国で、NGOと野党が政府弾圧の標的となった。ボスニア・ヘルツェゴビナ政府は、汚職防止活動を行う国際的なNGOが政府関係者の汚職疑惑を報告した後、その事務所を数日間強制的に閉鎖させた。ロシアでは、当局が、政治的に慎重を期する分野に特化した多くのNGOに対する嫌がらせを強め、2008年には、政府が過激主義を取り締まる法律に修正を加え、NGOの告発がより容易に行えるようにした。この法律は、修正される以前から既に、集会の自由と合法的な政府批判の制限について懸念を生じさせていた。ベラルーシでは、9人の政治囚の釈放は歓迎すべきことだったが、政府による集会と結社の自由に対する恣意的制限や、独立系の活動家に対する頻繁な嫌がらせへの懸念は依然として残った。ロシアでは、特に反体制派の抗議活動など、団体が平和的手段で抗議活動を行えないようにするために、警察が時々暴力を行使した。
この地域の民主的統治の状態を示す指標は、期待できるものもあれば、懸念されるものもあった。プラス面では、民主的に選出されたコソボの政府が、2月17日に無事に独立を宣言し、人権に関するモデル条項を含む憲法と法を整備した。残念なことに、他の国々はそのような有望な成果を挙げなかった。アルメニアの2月の大統領選挙は重大な欠陥があり、選挙後に数日にわたって平和的手段で抗議活動が行われたが、それは最終的に政府によって暴力的に鎮圧された。ロシアでは、3月の大統領選挙は、政府が支配する、あるいは政府の影響を受けたメディアが与党とその候補者に好意的な報道を行う、当局が野党候補者の登録を拒否する、選挙運動を実施に当たり機会が均等でない、不正投票が行われるなど、選挙期間中も選挙当日も問題が目立った。ベラルーシにおける議会選挙は、OSCEが掲げる民主的選挙の義務を十分果たすことができず、勝利を宣言した110人すべてが、政府の支持者であった。アゼルバイジャンの選挙は、OSCEが掲げる主要な義務を果たすことができなかった。
人権に関する問題は、大陸の東部に限られたものではない。西および中央ヨーロッパの安定した民主主義諸国の多くでは、中東、アフリカ、その他の地域からの移民の大量流入がもたらす、経済的・社会的資源の酷使、移民に対する制限的慣行、虐待の増加といった継続的な課題への取り組みを続けた。多くの国々で、必要な身分証明書類を持たない移民のための収容施設は劣悪な環境下にあり、ほかの被勾留者の収容施設よりも劣っていた。2008年に、ウクライナで兵とクライムに巻き込まれた人々の大部分が、アフリカ、中東、およびアジア出身者であった。ロシアでは、外国人嫌いや人種・民族に起因する攻撃が着実に増加を続け、憂慮すべき状況となっている。反ユダヤ主義の兆候がこの地域の多くの国々で見られ、暴力的な反ユダヤ主義の攻撃が依然として懸念事項であった。イタリアとハンガリーを含む多くの国々で、ロマ族の人々は、社会的暴力の標的にされ、暴力は前年よりもより頻繁に発生し、死者が出る場合もあった。
フランス、ドイツ、オランダ、スイス、および英国は、少数民族を差別と暴力から保護するために、ヘイトスピーチを禁止しようとした。しかし、人権関連の監視団の中には、これが言論の自由を侵害すると懸念する者もいた。
特定の国における動向
アルメニアでは、コーカサス地方で近年で最悪の暴力行為が選挙後に発生するなど、民主主義が大きく後退した。論争を呼んだ2月の大統領選挙後、数週間にわたっておおむね平和的な手段による抗議活動が行われた後、政府が3月1~2日にかけて抗議活動を行う人々を追い払おうと武力を行使した結果、武力衝突となり10人が死亡した。この暴力行為をきっかけに、20日にわたり非常事態が続き、独立系メディアに報道管制が敷かれ、その間に政府は市民の自由を著しく抑圧した。2008年の残り期間には、報復される危険なく、平和的に集会する、または政治的意見を自由に表現する権利が著しく制限され、数人の野党支持者が、政治的と思われる理由で、有罪となり、過度に厳しい判決を受けて投獄された。2008年末時点で、59人の野党支持者が、政治的と思われる理由で、まだ獄中にあった。選挙関連の犯罪に関係した容疑で訴追された政府関係者は1人もいなかった。3月の事件を調査するために政府が設置した、政治的に均衡の取れた事実調査グループの活動が、半ば成功したにもかかわらず、独立系メディアと市民社会活動家に対する嫌がらせ、脅迫、立ち入り税務調査などによって、民主主義の環境はさらに損なわれた。
アゼルバイジャンは、選挙管理について政府側に一定の改善が見られたが、国際選挙監視団が、民主的選挙の国際基準を満たしていないと評価した選挙で、10月にイルハム・アリエフ大統領が2期目の再選を果たした。不十分な点として、政治参加とメディアに対する厳しい制限、監視団に対する圧力と制限、および不正な開票と票集計のプロセスなどがある。2008年には、メディアに対する制限や圧力が悪化した。メディアを監視するNGOは、2008年前半に、ジャーナリストへの言葉による、あるいは身体的な攻撃が22件あり、2007年同期に比べ11件増加したが、いずれの攻撃も説明責任が問われることはなかった。数人のジャーナリストが、政治的動機に基づくとして多くの人が批判する罪で、依然投獄されたままであった。12月30日に政府は、2009年1月1日より、ラジオ・フリー・ヨーロッパ/ラジオ・リバティ、ボイス・オブ・アメリカ、あるいはBBCが、同国のテレビおよびFMラジオ周波数を使って放送を続けることを、もはや許可しないと発表した。これらの国際放送局がなくなったため、一般市民は、広く利用できる放送メディアの偏見のないニュースを視聴することができなくなった。
ベラルーシでは、政府の人権実績は依然として芳しくなく、当局は引き続き、重大な人権侵害を頻繁に犯した。以前政府が保証したにもかかわらず、9月に行われた議会選挙は自由でも公正でもなかった。当局は政治的動機による過去の失跡事件について説明責任を果たさなかった。刑務所の状況は依然として極めて劣悪で、囚人や被勾留者の虐待に関する報告が続いた。司法部門は独立性に欠けていた。政府は、報道、言論、集会、結社、および信仰の自由など、市民の自由の制限を強化した。治安部隊は、平和的な手段で抗議活動を行う人々を追い払うために、不当な武力を行使した。汚職は依然として問題であった。NGOと政党は、嫌がらせ、罰金、訴追、閉鎖の対象となった。宗教指導者は、礼拝を行った罪で罰金を科せられたり、国外追放され、閉鎖された教会もあった。
グルジアでは、OSCEが掲げる民主的選挙の義務の大部分を満たしていると国際選挙監視団が評価した1月の選挙で、ミヘイル・サーカシビリ大統領が再選された。しかし、監視団は、脅迫や圧力、不正な票集計に関する疑惑が広がるなど、重大な課題があることも強調した。5月に実施された議会選挙でも問題が見られた。政治的な動機による勾留が行われたという疑惑が何件かあった。唯一残っていた全国ネットの独立系テレビ局の支配権を反体制派が失って、メディアの多様性が損なわれた。8月の紛争では、グルジア軍とロシア軍双方が軍事行動で無差別な武力を用いた結果、多数のジャーナリストを含む一般市民の死者が出たと報告されている。
ロシア連邦では、2008年に政府および社会的な人権問題と人権侵害行為に関する報告が多数あり、総合的な国内の人権実績が引き続き下降傾向を示した。8月の紛争では、グルジア軍とロシア軍双方が軍事行動で無差別な武力を用いた結果、多数のジャーナリストを含む一般市民の死者が出たと報告されている。北コーカサスでは、治安部隊が、多くの場合、刑事免責を受けて、殺人、拷問、虐待、暴力、その他の残虐な行為に関与したと報告されており、政府の人権実績は依然として芳しくなかった。チェチェン共和国、イングーシ共和国、およびダゲスタン共和国では、治安部隊が非合法の殺人と政治的な動機による誘拐に関与した疑惑がある。イングーシ共和国では、一般市民と政府職員の殺人件数が2年連続で顕著に増加した。その犯人は通常、正体不明である。
国民に対する政府の説明責任の低下を反映して、市民の自由は抑圧され続けた。政府の圧力によって表現の自由とメディアの独立性が弱められ、ジャーナリストにとって環境は依然として危険な状況にあった。2008年にはジャーナリストが5人殺害され、そのうちのイングーシ共和国の事件は警察によるものだった。過去のジャーナリストの殺人事件は、未解決のままであった。政府は集会の自由を制限し、さまざまな団体が平和的手段による抗議活動に参加することを阻止するために警察が暴力を行使することがあった。特に人権監視活動に携わるNGO、ならびに外国から資金援助を受けているNGOに対する当局の敵意と嫌がらせは、市民社会が発展する余地が全般的に縮小していることを反映している。政治システムの中央集権化が進み、大統領府と首相府に権力が集中するようになったことから、2007年12月のロシア下院選挙で起きた問題が3月の大統領選挙で繰り返され、選挙は多くの国際基準を満たさなかった。
中近東と北アフリカ
2008年の中東地域は、民主主義と人権の促進にとって深刻な課題が引き続き見られる一方、大きく前進した点もあった。
エジプト、イラン、リビア、シリアなど数カ国の政府が、信条を理由に活動家を投獄する状況が続いた。2005年のエジプト大統領選挙で次点となったアイマン・ヌールは、本報告対象期間を通じて、エジプトで投獄されたままであった(ただし、2009年2月18日に釈放された)。イラン政府は、女性の権利を擁護する活動家と学生の活動家、労働組合員、および人権擁護活動家を定期的に勾留、迫害している。イラン当局は、市民社会団体の弾圧を続け、特に、世界人権宣言60周年を祝う準備をしていた人権擁護センターを12月21日に閉鎖した。リビア政府は3月に、政治活動家のファティ・エルジャーミを釈放したと発表した。しかし、彼は2008年いっぱいトリポリ医療センターで勾留されたままで、時折家族との接見が許可されるだけであった。シリアでは、政府が、人権活動を行う著名なメンバー、特に革新主義的反体制派の統括組織である「民主的改革のためのダマスカス宣言全国評議会」に所属する人々を勾留した。
インターネットと衛星テレビにより情報入手が容易になるにつれて、インターネット・ブロガーを含むメディアに対する制限が強まった。エジプトでは、警察がブロガーを勾留し、拷問した疑いがある。2008年の終わりには、イランで最も知られたブロガーであるホセイン・デラクシャンが逮捕された。チュニジアでは、当局がブロガーを逮捕、あるいは嫌がらせを行い、メディアの自由が後退した。イラクでは、ジャーナリストが、政治、女性の権利、同性愛に関する報道を行う一方で、身の安全を確保する戦いを続けている。イラクでのジャーナリストの殺害件数は2008年に減少したが、死亡率は依然として高かった。
この地域の多くの国は、引き続き信仰の自由と表現の自由を制限した。イランは、5月以降、バハイ教の指導者を7人勾留し、イランの大統領は、引き続きイスラエルの存在を非難した。サウジアラビアは、スンニ派イスラム教以外の宗教について、公の場での礼拝を禁止しており、宗教に基づくマイノリティーは、教育、雇用、政府に自分たちの代表を送る選挙の面で差別された。エジプトでは、政府が認めていない宗教の信者が、個人としても集団としても困難に直面した。バーレーンやアルジェリアといったその他の国々は、差別的な法律を制定したり、ヨルダンのように、引き続き多数派宗教に有利な政策を実施した。
この地域全体で、女性に対する法律的および社会的差別、ならびに暴力が続いた。女性の権利を擁護するイラン人の活動家が、平和的な手段で行う抗議活動に参加し、100万人署名キャンペーンでイラン法の下での平等な待遇を求めたことで、嫌がらせや虐待を受け、逮捕され、「国家の安全を危険にさらした」罪で告発された。しかし、この地域には、女性の権利で段階的な進展があり、女性が地方および国家の政府機関で積極的に指導的役割を求るようになった国もあった。クエートでは、2008年5月の国政選挙で、女性候補の当選はなかったものの、27人の女性が立候補した。2008年にアラブ首長国連合は、初の女性裁判官と女性大使を2人任命した。
中近東諸国の中には、過去数年間にわたって、労働者の虐待問題に取り組み、労働基準を改善するために、重要な措置を講じた国もあった。オマーンとバーレーンは、人身売買と戦うために包括的な法律を制定し、ヨルダンは、労働法の下での保護を拡大して出稼ぎの家事労働者にも適用した。しかし、外国人労働者の保護と、すべての労働者、とりわけ建設作業員と家事労働者について既存の労働関係法規を実施することに関して、深刻な課題が残った。
特定の国における動向
エジプトでは、2008年に、政府が言論、報道、集会、および信仰の自由を尊重する度合いが低下した。特に、インターネット・ブロガーの勾留と逮捕は、主にブログを利用して抗議デモを組織する彼らの活動や街頭抗議デモ、その他の活動への参加に関係しているようであった。1967年に制定された非常事態令はまだ適用されており、治安部隊は死者を出すような不当な武力を行使し、囚人と勾留者に拷問や虐待を行ったが、多くの場合処罰を受けなかった。
イランの政府は、恣意的逮捕、勾留、拷問、そして時には死刑という結果に終わる非公開裁判という手段を使って、改革主義者、学者、ジャーナリスト、および反体制派の人々に対し、組織的な脅迫活動を行った。逮捕時に未成年であった被告の死刑が、引き続き行われている。イランと米国の2重国籍者、ならびに米国に知人のいる、あるいは米国に渡航するイラン人は、引き続き脅迫と嫌がらせの標的となった。3月の議会選挙に先立ち、監督評議会は1700人近い改革派候補を不適格とした。
イラク全土の一般的な治安情勢は大幅に改善し、いくつかの県で和解と緊張緩和が実現した。しかし、武装勢力と過激派による民間への暴力行為が継続されて、法の支配を守る政府の能力が低下した。その結果、広範かつ深刻な人権侵害が行われた。しかし、2009年1月31日にアラブ人が多数を占める14県で、またその後2009年中にクルド人が多数派の3県とタメーン(キルクーク)で選挙を実施することを義務付ける地方選挙法が、2008年9月24日に通過するなど、前進も見られた。また、11月16日に、憲法が義務付ける独立人権高等弁務団の設置を承認する法律が採択されたことも、人権保護の制度化の第1歩となった。
ヨルダンでは、市民社会活動家が、結社に関する新しい法律に懸念を示した。この法律はまだ施行されていないが、政府が、理由を問わずNGOの登録を拒否すること、結社を解散させること、そしてNGOの運営、会員、活動に介入することを認めている。国際的および国内のNGOによると、刑務所は引き続き過密状態で、人員が不足し、食料と医療の提供が不十分で、接見も制限されていた。ヨルダンの法律では拷問が禁止されているが、ヒューマン・ライツ・ウォッチは、拷問は依然として広範囲かつ日常的に行われていると報告した。国民やNGOから、国家の安全保障に反する犯罪で有罪判決を受けたイスラム教徒を含む政治囚は、他の囚人よりもさらに厳しい虐待を受け、看守は刑事免責を受けて囚人を虐待しているという報告があった。政府で指導的地位を占めている女性は、この地域のどこの国よりも多かったが、その数は限られていた。同時に、配偶者からの暴力や、いわゆる名誉犯罪が続いた。2007年の報道法は、イデオロギー上の罪によるジャーナリストの投獄を廃止した。しかし、限定的ではあったが、刑法の規定によって、ジャーナリストが名誉棄損と中傷の罪で勾留や投獄された。厳しい罰金の脅迫を受け、多くのジャーナリストが自主検閲を行った。 7月に労働法が修正され、農業労働者と家事労働者も法の対象となり、彼らに一定の法的保護が与えられた。
人権の状況を改善するレバノンの能力は、国内の暴力行為と政治闘争によって4年連続で妨げられた。5月7日に、シーア派野党でありテロ組織でもあるヒズボラが率いる反体制派の戦闘部隊が、ベイルート国際空港と西ベイルートの数カ所を占拠した。84人が死亡し、およそ200人が負傷した後、5月21日に、対立するグループの指導者たちが、暴力行為と18カ月に及ぶ政治的抗争を終結させる合意に達した。休戦が行われ、5月に議会でミッシェル・スレイマン大統領が選出されたにもかかわらず、ヒズボラは、レバノンのいくつかの地域で大きな影響力を維持した。政府は、ヒズボラを含む武装民兵組織の解散および非武装化に向け、具体的な進展を全く見せていない。
シリア政府は、刑事免責と汚職の雰囲気の中で、引き続き、国民のプライバシー権利を侵害し、言論、報道、集会、および結社の自由を著しく制限した。治安部隊は人権擁護団体の会合を妨害し、正当な法の手続きなしで、活動家、集会の主催者、その他体制を批判する者を勾留した。1年を通して、政府は、人権活動を行う著名なメンバー、特に革新主義的反体制派の統括組織である「民主的改革のためのダマスカス宣言全国評議会」に所属する人々を勾留した。
チュニジアでは、政府は引き続き、表現と集会の自由を組織的かつ厳しく弾圧した。政府は、依然として人権活動家と反体制派の活動家が公に政府を批判することに不寛容であり、批判を阻止するために、編集者、ジャーナリストに脅迫、強制調査、および暴力的な嫌がらせを行った。当局は、印刷およびオンライン上の出版物の検閲を厳しく行い、日常的にジャーナリストに嫌がらせを行った。2008年には、治安部隊は政治的抗議活動を行う者を1人殺害し、被勾留者は拷問、性的暴力、自白の強要を受けた。
南・中央アジア
南・中央アジアでは、2008年に、表現、信仰、および結社の自由を含む基本的人権に対する重大な攻撃が見られた。
この地域の多くの政府は、個々のジャーナリストやメディアに対する嫌がらせを継続し、数カ国、特に中央アジアの国々が、インターネット上の情報への自由なアクセスの制限を続けた。キルギスでは、政府が、国営テレビとラジオから著名な独立系放送局の番組を外した。カザフスタンでは、政府管理のインターネットプロバイダーが、特定のニュースや反体制派中心のウェブサイトを断続的に妨害した。どちらの政府も、ジャーナリストに対し名誉棄損罪で多額の罰金を課した。また、身の安全に不安を感じて、出国したジャーナリストもいた。これまでと同様、トルクメニスタンで活動しているジャーナリストは、政府の嫌がらせ、逮捕、精神病院での拘束、暴力行為の対象となった。アフガニスタンでは、政府が、ある学生ジャーナリストを冒とくの罪で有罪とし、インターネットからダウンロードしたイスラム社会における女性の権利に関する記事を配布したことで死刑を宣告した。上訴裁判所が判決を懲役20年に減刑した。パキスタンでは、新政府の選出以降、ジャーナリストの逮捕件数が減少した。それでも、特に国内紛争が発生した地域で、正体不明の襲撃者によるジャーナリストへの脅迫、誘拐、殺害が続いた。スリランカでは、報道の自由を支持する人々に対する未解決の襲撃事件が数件起きた直後に、国防および政府関係者が独立系メディアに対し脅迫的な発言を行った。
この地域では、カザフスタン、キルギス、タジキスタンの議会が、信仰の自由の制限を強める法律を導入して、宗教的マイノリティーに不当な影響を与えたこと、また、インドのオリッサ州の少数民族に対して暴力行為が行われたことで、信仰の自由への風当たりが強くなった。これらの行動は、カザフスタンとタジキスタンの政府が宗教的マイノリティーに対する嫌がらせを強化し、ウズベキスタン政府が嫌がらせを続けるという状況の中で実行された。トルクメニスタンは、信教の自由に関する国連特別報告者の訪問を歓迎したが、政府はすべての宗教活動を厳重に管理し監視した。
この地域全体で、労働者の権利に関する重大な問題が依然として残った。アフガニスタン、パキスタン、およびインドでは、農業および製造部門で児童就労が継続した。キルギスとタジキスタンでは、綿花およびその他の産業で児童就労が広く行われており、ウズベキスタンでは、多くの学童が強制的に綿花の収穫に従事させられた。カザフスタンの政府は児童就労の根絶に向けて前進しているが、綿花およびタバコ産業ではまだ児童就労の慣行が行われている。ネパール、パキスタン、およびインドでは、特に大規模のインフォーマル部門や社会的に恵まれない少数民族の間で、強制労働が続けられた。バングラデシュの労働組合は、治安部隊が脅迫と虐待を行い、また監視活動を強化したことを報告した。
この地域の政府の中には、政治的反対勢力を制限し、真の選挙戦を禁止するところもあったが、南アジアでは、選挙と政治的競争に関していくつか改善が見られた。パキスタンでは、パキスタン人民党とパキスタン・ムスリム連盟シャリフ派の2つの主要野党が、競争的な議会選挙で合わせて過半数を獲得し、連立政権を樹立したことで、9年にわたる軍事政権に幕が下りた。モルディブの国民は、自由で公正な選挙によって、元政治囚を大統領に選出し、在任期間が最も長かったアジアの指導者を平和的に退位させた。アフガン独立選挙管理委員会は、タリバン政権崩壊後にアフガニスタンで行われる第2回目の選挙の準備活動を指揮した。ネパールでは、選挙で同国史上最も多様性に富む議会が誕生すると、新しい議会はネパールを連邦民主共和国と宣言し、平和的に君主制を廃止した。バングラデシュは自由で公正な議会選挙を行った。この選挙では不正行為が見られたが、単発的であり、暴力行為の発生も散発的であった。選挙とそれに続く平和的な権力の移譲によって、軍に支持された暫定政権による2年の支配が終わった。ブータンでは、下院選挙によって、真の国民の監視と参加を実現した立憲君主制への移行が完了した。
特定の国における動向
アフガニスタンにおける人権状況は、2001年のタリバン政権崩壊以降、大きく改善したが、脆弱な中央政府機関と破壊的な反政府運動のため、同国の人権実績は依然として芳しくなかった。タリバン、アルカイダ、その他の過激派グループは、政府関係者、治安部隊、NGOなどの援助関係者、および非武装の一般市民に対する攻撃を続けた。恣意的逮捕と勾留、裁判なしの処刑、拷問、および刑務所の劣悪な環境に関する報告が続いた。政府の弾圧と武装集団によって、メディアの自由な活動が妨害された。
バングラデシュでは、暴力行為が著しく減少し、暫定政権が選挙を監視しして成功させた。しかし、政府の人権実績には、依然として大きな懸念が残った。2007年に1月に政府が発令して12月17日に解除した非常事態は、表現の自由、結社の自由、および保釈の権利など、多くの権利や基本的自由を停止させた。政府が率先して行った汚職防止運動は、国民の支持を得る一方で、法律の下での公正さと平等に関する懸念を生じさせた。裁判なしの処刑の件数は減少したが、治安部隊は、裁判なしの処刑、被勾留者の死亡、恣意的な逮捕と勾留、ジャーナリストに対する嫌がらせなど、深刻な人権侵害を行った。治安部隊の中には、刑事免責を受けて拷問行為を行った者もいた。政府は裁判なしの処刑を十分調査しなかった。
カザフスタンでは、政治的反体制派が、政治的動機に基づく刑事告発や集会の自由の制限により、政府の嫌がらせを受けた。政府は、独立系および反体制派メディアとジャーナリストに嫌がらせを続けた。2008年末に、政府は、政党、メディア、および選挙を管理する法律の修正を検討していた。数人の市民社会の代表者と野党は、そのプロセスが透明性をを欠くとして批判した。また政府は、宗教に関する法律の修正も検討していたが、もし成立すれば、信仰の自由が大きく後退すると考えられる。
キルギスには、活力のある市民社会と独立系メディアが存在するが、政府はこの1年に、国民生活のさまざまな側面に対する管理を強化しようとした。新法あるいは改正法が、公の場での集会、信仰の自由、およびメディアに制限を加えた。10月に、国営テレビ・ラジオ・ネットワークが、ラジオ・リバティ/ラジオ・フリー・ヨーロッパの放送を中止し、情報源となるこの独立系メディアへの一般のアクセスを妨げた。中央選挙管理委員会の委員長は、10月の地方議会選挙のために野党候補を登録したことをめぐり、大統領の息子から圧力を受けていたという申し立てをした後に国外逃亡した。
ネパールは、4月の国政選挙の結果、ネパール史上で最も多様性に富む議会が誕生してから間もなく、連邦民主共和国となった。暴力、脅迫、および不正投票に関する報告があったが、選挙監視団は、選挙は国民の意思を反映していると報告した。暴力、恐喝、脅迫は、2008年1年を通して続いた。そして、人権を侵害した者の刑事免責、メディアに対する脅迫、恣意的な逮捕、および審理前の長期にわたる勾留が深刻な問題となった。マオイスト(共産党毛沢東派)およびマオイストの傘下にあるヤング・コミュニスト・リーグ、ならびにその他の小規模な武装集団(多くは民族武装集団)のメンバーが、数々の重大な人権侵害を犯した。そのような人権侵害行為には、破壊的な武器の恣意的および非合法の使用、拷問、および誘拐が含まれる。主にテライ地域で、いくつかの武装集団が、一般市民、政府関係者、特定の民族グループのメンバー、他の武装集団、あるいはマオイストを攻撃した。
パキスタンは、2008年に、国民による民主的統治に復帰した。2月の議会選挙で野党が圧勝し、連立政府を樹立した。連立関係は長く続かなかったが、政府は権力を維持している。9月に、故ベナジル・ブット元首相の夫であるアシフ・アリ・ザルダイが、ペルベズ・ムシャラフの後継として大統領となった。新政府は、新たな宣誓の下で、2007年11月の非常事態のさなかにムシャラフが解任した13人の最高裁判所判事のうち5人を復職させたが、3人は引退あるいは辞職した。陸軍参謀長は、3000人の陸軍士官を、彼らがムシャラフ在任中に就いていた文民政府の職から退任させた。これらの前向きな措置を取ったにもかかわらず、人権の状況は依然芳しくなかった。パキスタンでは、北西部の軍事行動で、およそ1150人の国民が殺害された。またその地域を過激派が攻撃し、825人以上の国民が殺された。国内の宗派間暴力による推定死者数は1125人で、自爆テロによる死者は970人に上った。
スリランカでは、25年に及ぶ内戦期間中に武力衝突が徐々に拡大するにつれ、民主的に選出された政府が人権を軽視するようになった。2008年末までに、少数民族を政治に参加させようとする動きはほとんどなく、彼らは殺害や失跡など大多数の人権侵害行為によって引き続き苦しめられた。政府は、北部紛争地域から国際的な人道支援提供者の大部分を退去させた。政府は、親政府系民兵による少年兵の使用の問題への取り組みを開始したが、問題は解決されなかった。政府は、治安部隊の人権侵害について調査も訴追も行わず、政府機関の監視を定める憲法の規定も実施しなかった。市民社会は脅迫を受け、独立系メディアとジャーナリストは親政府系による攻撃や脅迫を受け、強い圧力を受けることとなった。
トルクメニスタンではある程度の改善が見られたが、政府は引き続き深刻な人権侵害行為を行い、人権実績は依然として芳しくなかった。政治的・市民的自由は、引き続き厳しく制限された。6月に当局は、元活動家で政治囚であったグルゲルディ・アナニヤゾフを不法に再入国した罪で逮捕し、非公開裁判で懲役11年という判決を下した。12月に行われた議会選挙は、国際基準を大きく下回るものであった。政府は、関連する国際条約と整合性を取るために、憲法をはじめとする法律を改正する努力を続けた。
ウズベキスタンの政府は、被告の権利、人身売買、および綿花産業における児童就労などの人権問題への取り組みを進めた。しかし、深刻な人権侵害は続けられ、拷問は依然として警察で組織的に行われた。当局は、時には劣悪な生活環境の下で、子どもたちに綿摘み作業を強制した。政府を批判した人権活動家とジャーナリストは引き続き、嫌がらせ、恣意的逮捕、政治的な動機に基づく訴追、および拷問の対象となった。
西半球
この地域の政府は、被害者のための正義の確保と刑事免責の根絶に向けて努力することによって、引き続き過去の人権侵害に取り組んだ。コロンビアでは、多くの軍の指揮官が、膨大な数の人権侵害事件について取り調べを受けた。検事総長室は、ボゴタに近いソアチャ出身の若者11人の殺害に関与した疑いで、10月末に軍隊から解任された、3人の将軍と4人の大佐を含む27人の軍当局者を取り調べていた。チリとアルゼンチンで数件の捜査が続けられ、1970年代と80年代の人権侵害事件で多数の判決が下された。ペルーでは、国が、フジモリ元大統領と元政府関係者の汚職と深刻な人権侵害行為に対する訴追を続けた。法医人類学チームが遺体を発掘し、1980年代と90年代に強制的に失跡させられたり、虐殺された後に、秘密の墓に埋められた何千人もの遺体の身元確認を開始した。国連が主導する「グアテマラにおける無処罰問題対策委員会」は、女性の殺害、バス運転手の殺害、人身売買、および労働組合員と人権擁護活動家に対する攻撃と殺害に関する、15件の注目される人権侵害事件の調査を続けた。
一般的に、西半球各国の選挙制度は、近年獲得した独立性と厳格さ維持した。パラグアイの大統領選挙、ホンジュラスの大統領予備選挙、ボリビアとエクアドルの国民投票など、さまざまな選挙プロセスが、全般的に自由で公正であると判断された。しかし、例外もあった。ニカラグアでは、地方議会選挙が不正、脅迫、暴力のまん延によって損なわれた。ベネズエラでは、会計検査院長が行政上の違反を理由に、市長選挙と知事選挙の候補のうち300人近く(大部分が野党)に立候補資格がないと宣言した。
一部の例では、政府が、憲法をめぐる国民投票のような民主的手続きを利用して、民主的な自由と制度を弱め、抑制と均衡の機能を低下させ、あるいは行政府への権力を集中させる政策を追求した。エクアドルでは、2008年憲法に、メディアが政府に放送時間を無料で提供することを求める規定が含まれていることから、言論と報道の自由への影響に対する懸念が生じた。ベネズエラでは26件の「授権」法が成立した。その中には、失敗に終わった2007年の憲法をめぐる国民投票の要素が反映されており、選挙によって選出された議員の権限範囲を縮小する条項を特徴とし、権力の中央集中化を促進するものが含まれていた。
この地域では、報道の自由への脅威が見られた。ベネズエラでは、独立系メディアとジャーナリストは、引き続き、国営メディアを通じた政府高官による公の場での嫌がらせと脅迫の対象となり、ベネズエラの独立系テレビ局グローボビジョンは、政府支持者の催涙ガス攻撃の標的になった。ニカラグアの政府は、行政面・司法面・財政面の手段を使って、言論の自由の行使を妨げた。ボリビアの政府は、全般的に報道の自由を尊重したが、メディアとの対立関係は維持した。複数のNGOの主張によると、モラレス大統領と政府関係者がメディアを非難する発言を行い、ジャーナリストとメディアに対する暴力を容認し、国が制作するメディアコンテンツを政治的に利用し、独立系メディアを制限する法律を公布した。
キューバは、フィデル・カストロから彼の弟ラウル・カストロに非民主的な権力移譲が行われた後も、引き続き西半球で唯一の全体主義国家のままである。
特定の国における動向
ボリビアでは、政府が異論の多い新憲法を国民投票にかけようとし、反体制派が地方自治の拡大を求め、政府資金の拠出を求める要求が多方面から出たことにより、一連の暴力的衝突と大規模な道路封鎖が発生した。暴力行為は9月にピークに達し、パンド県で死者13人を出し、知事が不法に長期勾留された。5月と6月に東部の県で自治権をめぐって住民投票が実施されたが、連邦政府はそれを認めることを拒否し、国際社会は監視を辞退した。8月に罷免をめぐる全国的な国民投票が実施された結果、ほとんどの長官(知事)とエボ・モラレス大統領は留任し、大統領の社会主義運動党と、新憲法に関する国民投票の実施に向けた活動に勢いを与えた。
テロ組織との44年間にわたる武力紛争を背景に、コロンビア政府は、人権状況の改善に向けた努力を継続した。特に、約16万4000件の犯罪の解明に貢献し、軍事法廷制度の改革を導いた「正義と平和法」を施行した。2008年の最初の10カ月に、2007年比で、殺人は6%、誘拐は14%減少した。その一方で、政治家と民兵グループとの関係に関する調査では、70人の国会議員と15人の知事が関与していると見なされ、そのうちの多くは投獄された。それにもかかわらず、非合法の殺人、反抗的な軍部と不法武装グループとの協力、ジャーナリストと人権擁護団体への嫌がらせなど、多数の社会問題と政府による人権侵害が続いた。テロ組織、特にコロンビア革命軍と国民解放軍は、政治的動機の殺人やその他の殺人、誘拐、大規模な強制退去、少年兵の募集、人権活動家、教師、労働組合員に対する攻撃など、深刻な人権侵害行為を行った。
キューバでは、2007年に比べ言論と集会の自由への弾圧が強まった。治安当局者や政府が組織した群集による活動家の殴打など、反体制派への嫌がらせが激しさを増した。また、政府は、活動家を脅迫し、彼らの組織化を阻止するために、短期間の勾留の後に告訴せずに釈放するという手段をより頻繁に利用するようになった。少なくとも219人の政治囚が、殴打されたり治療を拒否されるといった、劣悪で生命にかかわるような厳しい状況で、投獄されたままの状態にあった。2008年に釈放された人々は、刑期を満了した人々であった。政府は、国民が独立した情報にアクセスすることを制限し、個人用コンピューターの所有を国民に初めて許可したにもかかわらず、特に、インターネットへのアクセスを制限しようとした。
グアテマラは、人権状況の改善に向けて取り組んだ。国連が主導する「グアテマラにおける無処罰問題対策委員会」は、注目される人権侵害事件の調査を継続し、新たに検察官の部署を設け調査能力を拡大した。しかし、引き続き暴力と刑事免責が広く見られた。国家警察官は非合法の殺人を犯し、当局は多くの場合、加害者の疑いのある警察官を取り調べて訴追するよりは、むしろ、彼らを異動させたり免職処分にした。ほかの暴力行為は、ギャング関係の事件、性的暴力、恐喝、組織犯罪、および麻薬の密売などに起因するものであった。労働組合員は、暴力を使って脅されたり、正体不明の攻撃者によって殺害された。政府の汚職は依然として深刻な問題であり、世論調査で、ほぼすべての政府機関が信頼されていないことが示された。
ニカラグアの与党サンディニスタ政権が、11月の市議会選挙から、信頼できる国際選挙監視団を排除した結果、ごまかし、不正、脅迫がまん延して選挙が損なわれることになった。ニカラグアは、法の支配の軽視、構造的腐敗、および司法やその他の政府機関の政治的利用に悩まされ続けた。政府とその他の関係者が、政府の政策を支持しないジャーナリストや市民社会団体に脅迫と嫌がらせをを行った。
ベネズエラでは、民主的権利と人権が両方とも次第に弱体化しており、深刻な結果を招く可能性があることが、NGOの団体によって指摘された。2008年には、国会が、選挙で選出された議員の権限範囲を縮小し、中央集権化を促進する条項を中心とした26件の法律を成立させた。政府は、272人の市長選挙と知事選挙の候補者に出馬資格がないと宣言し、これが違憲であると国際社会から批判・非難された。その対象となった人々は、ほとんどが野党候補であった。チャベス大統領は、大統領の任期制限の廃止に加え、選挙によって選出された全議員の任期制限の廃止を初めて試みるため、2009年2月19日に、憲法をめぐる国民投票を再度実施する意図を発表した。報道の自由を含む表現の自由に対して、実質的な妨害や脅威が多数あった。政府関係者は、国営メディアを使って、独立系メディアとジャーナリストに、公然と嫌がらせや脅迫を行った。政府は、独立系のベネズエラ・テレビ局が、チャベス大統領の暗殺を促しているとして告訴した。また、個人やメディア・ネットワークも、政府に批判的な発言をしたり、政府に反対する行動を呼びかけたことで、暴力を扇動し政府を動揺させるとして告訴された。政府機関と関係者、および政府系メディアは、頻繁に反ユダヤ的発言を行うことで反ユダヤ主義を促した。それは、反ユダヤ的な表現、風刺画、破壊行為、ユダヤ系組織に対するその他の物理的攻撃といった形で、社会に波及効果をもたらした。
結論
2008年12月10日は、国連総会が世界人権宣言を採択して60周年に当たる。人権宣言の採択から数十年の間に、すべての大陸において、人権宣言に列挙されている権利の獲得において著しい前進が見られた。それにもかかわらず、60年後の今もなお、何億もの人々が自国の政府によって基本的な自由を否定されている。
米国は、人権と法の支配を基盤とする国家である。私たちはこの報告書の出版に際し、世界のあちこちで、虐げられ、沈黙させられ、取り残された人々のために、情報源となり、希望を与え、助けとなることを目指している。そして、世界人権宣言にうたわれた人権が確実に守られ、尊重されるように、私たちは不変の姿勢で、国家・地域・世界のあらゆるレベルで努力することを約束する。
日本
日本は、人口およそ1億2770万人の議会制民主主義国家である。主権は国民が有し、天皇は国家の象徴と定義されている。2007年7月の参議院選挙で民主党が参議院で多数派となり、ほぼ半世紀にわたる自由民主党による国会の支配が終わった。選挙は全般的に自由かつ公正な選挙とみなされた。9月24日に福田康夫氏の後を引き継いだ麻生太郎総理大臣が、自由民主党と公明党の連立政権を率いている。全般的に、治安部隊に対する文民統制は効果的に行われた。
日本政府は、全般的に国民の権利を尊重した。人権問題を扱う非政府組織(NGO)の 報告によると、日本の収容施設と司法制度に問題が見られた。女性と子どもに対する暴力とその他の虐待、セクハラ(性的嫌がらせ)、および雇用差別の事例が見られた。人身売買は依然として問題であった。民族その他に基づくマイノリティーと非嫡出子に対する差別が問題であった。
人権の尊重
第1部 個人の人格の尊重(以下の状況からの自由)
a. 恣意的または違法な人命のはく奪
政府またはその職員による、恣意的、または違法な人命はく奪は報告されなかった。
b. 失跡
政治的動機に基づく失跡の報告はなかった。
c. 拷問およびその他の残酷、非人道的、または屈辱を与えるような処遇または処罰
法律によりこのような行為は禁止されており、実際に日本政府は、全般的にこれらの規定を順守した。
人権問題を扱う非政府組織(NGO)は、一部の刑務所で身体的虐待が疑われる事件があったと報告した。NGOの報告によると、2004年から2007年11月までの間に、徳島刑務所で、自殺者1人を含む8人の受刑者が死亡しており、その原因として、ある医師が受刑者の肛門に先の尖った器具を挿入したことが言われている。刑務所側は、この医師は正当な医療行為を行っていたと主張した。
2008年末の時点で、2004年の被疑者死亡事件で有罪となった警察官3人に対する民事訴訟では、3人全員が「有罪」となり、うち2人は上訴した。9月9日に、福岡高等裁判所は、先祖の名前を書いた上を歩かせる「踏み字」という手法を用いて被疑者に自白を強要した元警察幹部に対して、第一審裁判所が下した執行猶予付き有罪判決を支持した。
日本政府は依然として、死刑囚およびその親族に対し、死刑執行日に関する情報を提供しなかった。死刑囚の親族は、死刑執行後、その事実を告知された。政府は、この方針は、受刑者に自分の死期を知る苦しみを与えないためと主張した。死刑囚は、死刑執行まで平均約8年間、単独室に収容されたが、親族、弁護士、およびそれ以外の人々との面会は認められた。
受刑者の人権を保護するNGOは、引き続き、刑務所の管理部門が、受刑者の独居拘禁に関する規則を日常的に乱用していると報告した。処遇に関する規則は、最長60日間の懲罰としての独居拘禁が認められているが、刑務所の運営手続き上、刑務所長が受刑者を無期限に「隔離」することができる。刑務所側は、独居拘禁は、定員いっぱい、あるいは超過状態にある刑務所内の秩序を維持するために用いなければならない重要な手段である、と語った。
刑務所および収容施設の状況
刑務所の状況は、全般的に国際基準に合致したものであった。しかし、いくつかの施設では定員超過、暖房の不備が見られた。またNGOの報告によると、一部の施設では、食料や医療処置が不十分だったり、受刑者を寒さから守るための衣類や毛布が十分に与えられていなかった。ほとんどの刑務所は、冬期、夜間気温が氷点下まで下がっても、夜間に暖房を入れない。刑務所での暖房の不備により、受刑者は、しもやけから、より重篤な形態のものまで、予防可能な寒冷障害にかかりやすい状況に置かれた。2007年8月には、冷房設備も 扇風機もない収容施設に収容されていた2人の男性が熱中症で死亡した。NGO、弁護士、医者は、刑務所、警察が管理する留置場ならびに入国者収容施設における医療体制を批判した。
これまでとは異なり、受刑者に対する強姦の報告はなかった。
入国者収容施設において未成年者を成人と別の施設に収容することを義務付ける規定はないが、実際には、未成年者が成人と同じ収容施設に収容されたという報告があった。
刑事収容施設法では、法務省が管理する刑務所および拘置所を、独立性を持つ委員会が視察する旨、規定されている。委員には、医師、弁護士、地方自治体職員、地域社会の代表、その他の地域住民が含まれた。受刑者の権利擁護団体によると、委員会は年間を通じて、法務省が管理する刑務所を視察した。2007年の6月には、警察が管理する留置場の視察も開始された。人権問題を扱うNGOの報告によると、これまでと比較すると、刑務所と外部との信書のやり取りが増加しているようである。
2007年5月には、国連拷問禁止委員会(UNCAT)が、暴力の疑い、拘束具の違法使用、セクハラ、医療体制の不備があるとして、入国者収容施設を批判した。また、入国者収容施設に対する独立した監視制度がないことも批判した。法務省は、被収容者が、処遇に対する不服を収容施設の長に申し立てることができ、また判定に対する異議がある場合には法務大臣に、申し出が可能であることを理由に、現行でも十分な制度が整備されており、独立の調査機関は必要ないと主張した。
d. 恣意的逮捕または留置・勾留
法律により恣意的逮捕や留置・勾留は禁止されており、日本政府は、全般的にこの禁止を順守した。法的権利の擁護に取り組むNGOは引き続き、恣意的留置・勾留と思われる事例を報告した。
警察および治安維持機構
警察庁および地方警察に対する文民統制は効果的に行われた。日本政府は権利の乱用および汚職の捜査を効果的に行う制度を持つ。2008年には、治安部隊が関係する刑事免責の報告はなかった。しかし、一部のNGOは、地方の公安委員会が警察機関からの独立性に欠け、警察機関に対する十分な権限も持たないと批判した。
逮捕と留置・勾留
個人の逮捕は、正当な権限を持つ当局者が十分な証拠に基づいて発付された令状により公に行われ、被拘禁者は、独立した司法制度により裁かれた。法的権利の擁護に取り組むNGOによると、実際に令状は高い頻度で発付され、証拠の根拠が薄弱であっても留置・勾留が行われることがあった。
法律により、被拘禁者には、その留置・勾留の合法性に関する迅速な司法決定を受ける権利が与えられており、実際に当局はこの権利を尊重した。法律により、当局は被拘禁者に対して、直ちに容疑を告知しなければならない。当局は通常、逮捕から72時間まで、留置場に被疑者の身柄を拘束することができる。さらに拘束を延長する場合には、その前に、裁判官が被疑者を面接しなければならない。裁判官は、起訴前の勾留期間を10日間ずつ、最長20日間まで延長できる。検察官はこの延長を習慣的に申請し、許可を得た。検察官はさらに5日間の延長申請を行うことができる。法的権利の擁護に取り組むNGOは、延長が習慣的に認められるため、勾留の合法性に関する司法判断を迅速に行うという法の目的が事実上損なわれていると指摘した。
刑事訴訟法により、被勾留者、その親族、または代理人は、裁判所に対して、起訴された被勾留者の保釈を請求することができる。しかし、警察の留置場または法務省が管理する拘置所に勾留されている、起訴前の被勾留者には保釈が認められなかった。裁判官は習慣的に、検察官の要求する勾留延長を認めるため、「代用監獄」として知られる起訴前の勾留は、通常23日間続いた。起訴前に勾留されている被疑者は、尋問を受けることが法的に義務付けられている。1月より実施された警察庁の指針により、尋問時間が1日最長8時間に制限され、夜通しの尋問が禁止されている。
起訴前の被勾留者は、国選弁護士等の弁護士と接見することができた。受刑者の権利擁護団体によると、実際には、この接見は時間と回数の両面で改善された。しかし、取り調べ中に弁護士が同席することは認められていない。親族が被勾留者と面会することは許可されているが、その際には職員の立ち会いが要求される。 薬物犯罪の嫌疑をかけられている被勾留者は、習慣的に、起訴されるまで隔離されて勾留され、領事と弁護士に接触することしか許されなかった。2007年に検察官は、自己裁量で被疑者の自白を一部録音し始めたが、人権問題を扱うNGOは、部分的かつ自由裁量による録音が誤解を招く可能性があると指摘した。9月1日に、警視庁および39道府県の警察において、取り調べの監督の試験運用が開始された。
被疑者が強制的に犯行を認めさせられることがないように、また被疑者が本人の自白のみを証拠に有罪判決を受けることがないようにするための保護手段が存在するが、警察の取り調べ手続きマニュアルによると、警察の捜査官には、被拘禁者から自白を引き出すために多大な圧力をかけることが認められている。NGOは、殴打、脅迫、睡眠不足にさせること、早朝から深夜にわたる尋問、被疑者に立ったまま、あるいは座ったまま、一定の姿勢を長時間続けさせることなど、自白を引き出すために使われた手段を記録してきた。警察庁の新しい指針は、警察官が被疑者に触れること、脅迫すること、被疑者に長時間一定の姿勢を取らせること、言葉で虐待すること、自白を引き出すために被疑者に好ましい申し出をすること、を禁止している。外国人被拘禁者の中には、適切に翻訳されておらず読むことができない日本語の供述書に署名することを警察に強要されたと主張する者もいた。
e. 公正な公開裁判の拒否
法律により、独立した司法制度が規定されており、実際に日本政府は、全般的に司法の独立性を尊重した。
審理手続き
法律により、すべての国民に公正な裁判を受ける権利が与えられており、また起訴された個人がそれぞれ独立した裁判所で公開裁判を受けること、弁護人を得られること、そして反対尋問の権利を与えられることが保証されている。被告は、法廷で有罪と証明されるまで、推定無罪と見なされる。また、被告は、自己に不利益な供述を強要されることはない。
UNCAT、NGOおよび弁護士は、実際に被告が推定無罪と見なされているかどうか疑問を呈した。法的権利の擁護に取り組むNGOによると、起訴された被勾留者の大半は、警察に拘禁されている間に自白した。
言葉の壁は外国人被告にとって深刻な問題であった。裁判官、弁護士、および日本語を話せない被告との間で、効果的な意思疎通を確保するためのガイドラインはなかった。法廷通訳者になるための標準的な免許制度あるいは資格取得の制度はなく、翻訳や通訳が行われない状態でも裁判が行われた。
警察の留置場を使用すれば、被疑者が取調官の監督下に置かれることになるが、そうした事例は、30余年間増加している。日本政府の統計によると、逮捕された被疑者の98%以上が警察の留置場に送られた。残りの2%は法務省が管理する拘置所に収容された。第一審裁判所で審理された事件の99%以上で、有罪判決が下された。 また、日本の司法は自白を重視する。
2008年には、警察での自白に基づいて有罪判決が下り、後に無罪であることが証明された事例に関するマスコミ報道があった。10月には、2002年に起きた強姦事件で警察に自白を強要された男性に無罪判決が下りた。実際の強姦犯人はその後、逮捕された。
審理手続きは検察側に有利となっている。法律により、弁護人との接見が認められているにもかかわらず、かなりの数の被告が、弁護人との接見不足を報告した。法律では、検察官の持つ資料の全面開示を義務付けておらず、検察側が裁判で使用しない資料は伏せておくことができる。一部の被告の法定代理人は、警察の記録にある関連資料を入手できなかった、と主張した。上訴に当たり、被告側弁護人は無罪を証明できる可能性のあるDNA鑑定の証拠を入手することができなかった。警察の回答は、すべての証拠は一審での審理の後に破棄されたということであった。
政治囚と政治的被拘禁者
政治囚または政治的被拘禁者が存在するとの報告はなかった。
民事司法手続きと救済
民事事件に関しては、独立した公正な司法制度がある。人権侵害に関する事件は、民事裁判所で扱われている。
f. プライバシー、家族、家庭、または信書に対する恣意的な干渉
法律により上記のような行動は禁止されており、実際に日本政府は、全般的にこれを順守した。
第2部 市民の自由の尊重
a. 言論と報道の自由
法律により言論の自由と報道の自由が規定されており、実際に日本政府は、全般的にこうした権利を尊重した。独立した報道機関、効果的な司法制度、および機能する民主的政治制度が相まって、言論と報道の自由が確保された。
超国家主義者は、時折、事実上言論の自由を抑制するようなやり方で、地方自治体に圧力をかけた。1月に極右団体がつくばみらい市を脅し、配偶者による暴力防止に関する講演会を中止させた。
インターネットの自由
政府によるインターネットへのアクセス制限はなかった。また政府が電子メールまたはインターネット・チャットルームを監視したとの報告もなかった。個人および団体は、電子メールを含むインターネットを使って、平和的に意見を表明することができた。インターネットは、携帯電話などを通じ広く利用することができた。2008年には、日本の人口のおよそ74%がインターネットを利用した。
学問の自由と文化的行事
政府が学問の自由や文化的行事を制限することはなかった。文部科学省による歴史教科書検定、特に20世紀に関係する特定の題材の扱いが引き続き論争になっている。国歌(「君が代」)と国旗(日の丸)は、依然として論議の的となる象徴的な問題であった。2003年以降、400人近くの教員が、国旗掲揚時に国歌を斉唱することを拒否して処分を受けた。2007年2月に最高裁判所は、思想および良心の自由をすべての国民に保障する日本国憲法第19条に違反することなく、ピアノで国歌を演奏することを拒否した音楽の教員を懲戒処分とすることが可能であるという判決を下した。
4月に右翼団体が、靖国神社を批判した映画の上映を中止するよう、映画館に圧力をかけた。
b. 平和的な集会および結社の自由
法律により集会と結社の自由が規定されており、実際に日本政府は、全般的にこれらの権利を尊重した。
在日コリアン人権協会は、一部の地方自治体が、在日韓国・朝鮮人による市の公会堂の使用申請を拒否したと主張した。
c. 信仰の自由
法律により信仰の自由が規定されており、実際に日本政府は、全般的にこの権利を尊重した。
社会的な虐待および差別
各宗教団体間の関係は全般的に友好的であった。日本国内にはユダヤ教信者約200世帯が居住していると推定されるが、反ユダヤ主義の活動は報告されなかった。
詳しくは、「信仰の自由に関する2008年国際報告書」(www.state.gov/g/drl/irf/rpt) を参照。
d. 移動の自由、国内避難民、難民保護および無国籍者
法律により、国内の移動の自由、外国旅行、移住、本国帰還の自由が規定されており、実際に日本政府は、全般的にこれらの権利を尊重した。日本政府は、国連難民高等弁務官事務所およびその他の人道支援組織と協力して、難民、亡命希望者、およびその他の関係者について保護と援助を行った。
法律により国外追放は許可されておらず、政府がこれを実行することもなかった。
難民の保護
法律により、国連が1951年に採択した難民の地位に関する条約、および関連する1967年発効の議定書に従い、亡命者として保護し、あるいは難民として認定を行うと規定されており、日本政府は難民を保護する制度を確立している。
実際には、政府は、帰国した場合、生命や自由が脅かされると考えられる国への難民の国外退去あるいは送還に対し、ある程度の保護を提供した。しかし2007年5月に、UNCAT は、日本の法律は拷問の恐れのある国への強制送還を明示的に禁止していないと指摘した。日本政府は、日本の法律には、いかなる外国人も、その生命が脅かされる領土に送還されることはない、ということが明示的に規定されていると回答した。実際には、多くのロヒンギャ民族がビルマに強制送還された。さらに、UNCATは難民申請を審査する独立した機関がないこと、 法務省は難民申請者が上訴のための法定代理人を選択することを認めていないこと、また非居住者への政府による法的支援が制限されていることを批判した。 UNCAT、NGOおよび弁護士は、亡命申請が却下されてから強制送還されるまで、亡命申請者が無期限に、しばしば長期にわたり、収容されていることを批判した。
2008年に提出された816件の難民認定申請のうち、41人が難民と認定され、88人は人道的理由で在留が認められた。
難民は、少数民族の場合と同様、住居、教育、雇用の機会を制限される差別を受けた。難民認定が未決または上訴中の人は、就業したり社会福祉を受ける法的権利がなく、過密状態の政府の収容施設やNGOの支援に頼るしかなかった。
第3部 政治的権利の尊重-国民が政府を変える権利
法律により、国民に、平和的に政府を変える権利が与えられており、日本国民は、普通選挙権に基づいて定期的に行われる自由かつ公正な選挙を通じて、この権利を行使した。
選挙と政治参加
日本では2007年7月に参議院選挙が行われた。全般的に自由かつ公正な選挙が行われたと見なされている。
政党は制約あるいは外部からの干渉を受けることなく活動した。
衆議院では480議席中45議席、参議院では242議席中43議席を女性議員が占めた。2008年末時点で女性知事が5人いた。18人の閣僚のうち2人が女性であった。少数民族の中には複数の民族の血を引いている人もおり、また少数民族であることを自ら明らかにしないため、国会議員となった少数民族の人数を把握するのは難しかった。外国生まれの国会議員が3人いた。
政府の汚職と透明性
法律により、公務員の汚職には刑事罰が規定されており、日本政府は全般的に法律を効果的に執行した。2008年には、政府の汚職に関する報告がいくつかあった。警察庁の2007年の統計によると、贈収賄事件が47件、談合事件が26件あった。2006年の件数は、贈収賄が74件、談合が42件で あった。2008年上半期に、警察庁は23件の贈収賄と18件の談合を報告した。政治家および公務員が関与した財務会計に関する不祥事が頻繁に報道された。
財務情報開示の法律は存在するが、取り締まりが十分に行われていない。疑わしい取引とマネーロンダリング(資金洗浄)の事例に関する国際的な法執行機関との協力も十分でなかった。
一般市民には、政府の情報を入手する法的な権利がある。政府が情報公開の合法的な要請を拒否したり、情報入手のために法外な料金を課したとの報告はなかった。
第4部 人権侵害の疑いに対する国際機関および非政府機関の調査に対する政府の姿勢
国内外の多くの人権団体は、全般的に、政府による制約を受けずに活動し、人権侵害の事例について調査をし、調査結果を公表した。政府関係者は、全般的に協力的であり、こうした団体の見解に対応した。人権団体は、日本には独立した国内の人権機関がまだ設立されていないことを指摘した。既存の人権委員会は法務省に報告している。
2008年には、国連人権理事会、およびアムネスティ・インターナショナルとバイタル・ボイスを含むNGOは、「慰安婦」に対する日本の謝罪と補償金が不十分であると批判した。日本は、第2次世界大戦中に売春を強要された被害者に対し、政府が発足させた民間基金を通じて補償金を支払い、反省の意を表明し、謝罪を行った。これは、1993年の河野談話が発端だったが、2001年には当時の小泉純一郎首相が、特定可能な被害者全員に書簡を送った。小泉首相は、この書簡の中で「私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。(日本は)過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません」と述べた。
第5部 差別、社会的虐待、人身売買
法律により、人種、性別、障害、言語、および社会的地位に基づく差別は禁止されている。政府は全般的にこれらの規定を執行したが、女性、少数民族、および外国人に対する差別の問題は残っている。
女性
法律により、配偶者間の場合も含め、あらゆる形の強姦が犯罪とされており、政府は全般的に、この法律を効果的に執行した。政府の統計によると、2007年に報告された強姦事件の件数は1766件、2008年上半期は747件であった。多くの警察署は、秘密を守って被害者の女性を支援するために女性職員を雇用した。
女性に対する配偶者からの暴力は、法律で禁止されているが、まだ広く残っている。地方裁判所は、配偶者からの暴力の加害者に6カ月間の接近禁止を命ずる保護命令を出すことができ、違反者には懲役1年以下または100万円(約8500ドル)以下の罰金を科すことができる。2007年に、裁判所は2779件の保護命令申請のうち2186件を受理した。2008年は、8月までに、2145件の保護命令申請のうち1690件が受理された。この法律は、内縁関係にある者や離婚している者にも適用されるが、2007年7月に改正され、虐待の被害者だけでなく暴力で脅された者にも適用されることになった。警察庁の統計によれば、2007年に報告された配偶者からの暴力は、2万992件に上った。配偶者暴力相談支援センターは、2007年の相談件数は6万2078件であったが、2008年上半期は3万5071件だったと報告した。
売春は違法であるが、定義は狭い。ほかの国では売春と見なされる有償の性行為の多くは、日本では合法とされている。
職場におけるセクハラはまだ広範囲に見られた。2007年度に厚生労働省に報告された職場におけるセクハラの件数は、1万5799件に上った。法律では、セクハラ防止を怠った企業名を明らかにする法的措置が規定されているが、違反した企業の名前を公表する以外には、順守を強化するための懲罰的措置はない。政府は、差別やセクハラに関する苦情に対処するために、ホットラインを設置したりオンブズマンを指名している。
法律により性差別は禁止され、全般的に女性には男性と同じ権利が与えられている。男女共同参画会議が法の施行状況を監視した。同会議の高官レベルのメンバーには、内閣官房長官、閣僚、国会議員らが含まれている。2008年に、同会議は定期的に会合を開き、男女共同参画社会の形成に関する政策を検討し、その実現に向けての進展を監視した。人権団体は、女性が離婚後6カ月間は再婚が禁止されていること(男性にはそのような待機期間はない)や、男女で最低婚姻年齢が異なること(男性18歳、女性16歳)など、性別による格差があることを指摘した。
雇用における不平等が依然として社会に根強く残っている。女性は全労働力の41.5%を占めたが、女性の平均月給は22万2600円(約1988ドル)で、男性の平均月給(33万7700円または3015ドル)の3分の2に満たなかった。
子ども
日本政府は、子どもの権利と福祉に力を入れて取り組んでおり、全般的に子どもの権利は十分に保護された。
児童虐待の報告件数は激増を続けた。2007年度には、親あるいは保護者による児童虐待の可能性があると全国児童相談所に報告された事例は、4万639件に上った。2007年には、300件の児童虐待の事例について、起訴に向けた捜査が行われていた。警察庁によると、2007年度には、35人の子どもが虐待によって死亡した。法律により、児童福祉当局には、虐待する親が子どもと面会すること、あるいは連絡を取ることを禁止する権限が与えられている。また法律により、しつけの名目で虐待することが禁じられているほか、疑わしい状況に気づいたものは誰であろうと全国各地にある児童相談所または地方自治体の福祉事務所に報告することが義務付けられている。
児童ポルノの配布は違法だが、法律では、多くの場合、幼い子どもに対する残酷な性的虐待を描写している児童ポルノの単純所持を処罰化していない。法令上の根拠がないため、警察は捜査令状を取るのが難しく、現行の児童ポルノ処罰法の効果的な執行や、この分野における国際的な法執行の取り組みへの参加ができない。インターネット・サービス・プロバイダーは、日本が児童ポルノの拠点になっており、内外でさらに子どもの犠牲者を増やすことになると認めている。
相続権に関する非嫡出子への差別が継続した。6月4日、最高裁判所は、日本国籍の父親と外国籍の母親の間に生まれた非嫡出子に日本国籍を認めない法律の条項は違憲であるという判断を下した。12月5日に改正国籍法が成立し、父親が認知した場合、そのような状況の下で生まれた子どもの日本国籍取得が可能となった。
人身売買
法律では、性的および労働搾取のための人身売買を犯罪として規定している。 しかし、日本政府の取り組みにもかかわらず、人身売買は引き続き重大な問題であった。日本はいまも、商業的な性的搾取およびその他の目的で売買される男女や子どもの目的国および経由国となっている。被害者の出身地は、中国、韓国、 東南アジア、東欧、そして、これより規模は小さいが、中南米であった。また、性的搾取を目的に国内で少女が人身売買されたという報告もあった。認知された人身売買被害者の大半は、仕事を求めて日本に移動してくるものの、日本到着と同時に、借金に縛られ、売春を強要される外国人女性であった。移住労働者は男女共に強制労働という状況に陥りやすかった。
性的搾取を目的とする人身売買に関与した仲介者、ブローカー、および雇用者は、組織犯罪集団(ヤクザ)とのつながりがしばしばみられた。
売春のために人身売買される女性の大半は、雇用者によって渡航書類を取り上げられ、移動の自由を厳しく制限された。逃亡を試みれば、本人または家族に報復が行われる、と脅されていた。多くの場合、雇用者はこれらの女性を隔離し、常に監視下に置き、反抗すれば懲罰として暴力を振るった。一部のブローカーは被害者を支配するために麻薬を使った、というNGOの報告もある。
借金による束縛も被害者を支配する手段のひとつであった。人身売買の被害者は、日本に到着するまで、自分の借金の金額、その返済に要する期間、および到着と同時に課せられる労働条件を理解していない場合が多かった。女性たちは、最高450万円(約4万ドル)の借金を負っていた。その上、生活費、医療費(雇用者が提供した場合)、およびその他の必要経費の支払いを要求された。行いが悪いとの理由で当初の借金に「罰金」が追加された。雇用者がこうした借金を計算する方法は不透明であった。また雇用者は問題を起こす女性や、HIVに感染している女性を「転売」し、あるいは転売すると脅して、被害女性の借金額を増やし、労働条件をさらに悪化させることもあった。
警察による法執行の強化により、多くの風俗店経営者は、店舗型の営業から「派遣型」の「デリバリー・ヘルス」業に移行した。このように、インターネットを利用した勧誘とあっせんに移行したことで、人身売買の被害者が雇用者から搾取されている程度を推し量ることが難しくなった。
性的搾取目的の人身売買の罪を犯した者の訴追状況には、目立った改善は見られなかった。2007年には、性的搾取目的の人身売買で11件が起訴され、12人が有罪判決を受けた。2006年は起訴件数が17件、有罪判決を受けた件数は15件だった。当局の大半は、こうした件数の減少が、「興行」ビザ審査の厳格化の成果であるとした。2007年における12件の有罪判決のうち、7人が懲役2年から4年の実刑判決を受け、5人が執行猶予付きの判決を受けた。
労働搾取は、労働問題活動家、NGO、シェルター、およびメディアによって広く報告された(第6部e項を参照)。2006年だけでも、労働基準監督署によって1209件以上の労働関連法違反が認定されたが、過去2年間で、有罪判決を受けた労働目的の人身売買の事例は2件のみであった。
日本政府によって認知された人身取引被害者数は、2年連続して減少した。法執行当局が認知した被害者の数は、2005年の116人、2006年の58人から、2007年には43人に減少した。警察と入国管理官が被害者の認知を十分に行うことができなかった、という報告が引き続き見られた。警察大学校では、人身売買に関する授業が開始された。警察庁と人身売買問題を扱うNGOは共に、潜在的な被害者の信頼を得ることは、困難で時間を要する作業であることを認めた。日本は、被害者認知について、国際移住機関(IOM)と協力しているが、正式な被害者認知手続きをまだ採用していない。日本では、政府および警察のさまざまな部門に、主に人身売買を担当する職員はいるが、人身売買問題専任の法執行官や社会福祉担当職員は置いていない。人身売買被害者と共に活動するNGOは、性風俗産業で働く外国人女性や移住労働者など、脆弱(ぜいじゃく)な人たちの中から被害者を探し出すことに、政府が積極的でないと主張し続けた。NGOの報告によると、搾取される状況の中で働いている女性が、不法就労を目的に自ら進んで入国していたという理由で、警察および入国管理局職員が彼女たちを人身売買被害者として分類しなかったことが時折あった。人身売買問題を扱うNGOと警察庁は共に、被害者の認知が困難な「あいまいな領域」があることを認めた。
厚生労働省は、警察や入国管理局職員が、配偶者からの暴力の被害者向けの既存のシェルター網を、本国への帰国を待つ外国人人身売買被害者向けの一時的な住まいとして利用することを奨励した。2007年に人身売買の被害者として認知された43人のうち40人が、政府のシェルターでサービスの提供を受けた。配偶者からの暴力の被害者と見なされた外国人女性のうちかなりの割合の女性は、おそらく人身売買被害者であり、シェルターを提供された。政府は被害者の医療費を負担し、IOMへの拠出を通じて被害者の帰国を支援した。人身売買の被害者として認知された43人のうち16人は、IOMに付託してリスク評価や正式な本国への帰国手続きを行うことなく、本国へ帰国させられた。
一般的に、政府のシェルターは、人身売買被害者に十分なサービスを提供できる資源を備えていなかった。人身売買被害者の援助を専門に行うNGOの シェルターには、7カ国語以上を話すことのできる常勤のスタッフがそろっていたが、厚生労働省のシェルターは、外部の通訳業者に頼らなければならなかった。政府のシェルターで心のケアを受けた被害者もいたが、大多数は、被害者の母国語を話す、訓練を受けた心理カウンセラーを利用する機会を十分得られなかった。政府は、この問題点への取り組みを始めたところである。政府のシェルターに滞在した外国人女性の被害者は、人身売買被害者の特殊なニーズを理解する専門家から母国語によるカウンセリングが十分受けられないこと、同国人やその他の人身売買被害者から孤立していること、そして、特に日本滞在中に働いたり、収入を得るという、代替となる選択肢がないことが理由で、できるだけ早く帰国することを選んだ。政府は、被害者の民間シェルターへの滞在を支援するための資金を用意していたが、被害者の大半は公的シェルターに送られた。政府は、本国に帰国することで被害者が苦境に立たされたり報復を受けるような場合には、被害者は、本国への帰国に代わる合法的な選択肢として、特別な在留資格を得る権利があると主張したが、被害者が日本に数カ月以上滞在した事例はほとんどなく、滞在した人々は通常、民間のシェルターで保護されていた人々、あるいはNGOの支援を得た人々であった。
国務省の「人身売買年次報告書」はウェブサイト(www.state.gov/g/tip)で閲覧が可能。
障害者
法律により、雇用、教育、および医療において身体障害者や精神障害者に対する差別は禁止されており、日本政府はこれらの規定を執行した。しかし、日本弁護士連合会は、差別が定義されていないため、司法的救済による法的強制力を持たないと抗議した。
障害者は、全般的に、雇用、教育、またはその他の公共サービスにおいて公然と差別されることはなかったが、実際には、こうしたサービスの利用は制限されていた。大学生全体に占める障害者の比率は0.2%未満であった。
法律により、政府および民間企業は、障害者(精神障害者を含む)を一定の比率以上雇用することが義務付けられている。従業員300人以上の民間企業がこれを順守しなかった場合は、法定雇用数に足りない障害者1人当たり毎月5万円(425ドル)の罰金を支払わなければならない。厚生労働省のデータによると、政府による障害者雇用は最低基準を超えていたが、民間部門では、過去1年間で増えたものの、公共部門に遅れを取っていた。ある調査では、従業員56人以上の民間企業では、従業員の1.6パーセントが障害者であることが分かった。
公共施設の新たな建設プロジェクトでは、障害者のための設備を整備することが義務付けられた。また政府は、病院、劇場、ホテル、およびその他の公共施設の経営者が、障害者用の設備を改善または設置する場合には、低金利の融資および税控除を受けることを認めている。
最近の調査によると、一部の刑務所では、累犯者の最高60%を精神障害者が占める可能性があることが示された。人権問題を扱うNGOによると、住所不定と見なされたことが理由で、老齢年金、障害者年金、および生活保護手当てを受給できないホームレスの数は推定2万人であった。また、調査では、累犯者の中で、社会福祉の網の目から抜け落ちたホームレスの人々が大きな割合を占めることが示された。
精神衛生上の問題を扱うNGOと医師によると、精神障害者は汚名を着せられ、教育と就職でも障害に直面した。精神衛生の専門家は、精神障害の汚名を軽減し、うつ病やその他の精神疾患は治療可能な、生物学に基づく疾患であることを一般の人々に知らしめる努力が十分になされていないと述べた。
国籍・人種・民族に基づくマイノリティー
部落民(封建時代に「社会的に疎外された者」の子孫)、および民族に基づくマイノリティーは、その程度はさまざまであるが社会的差別を受けた。およそ300万人いる部落民は、政府による差別は受けていないが、住居、教育、雇用の機会を制限されるなど、深く根付いた社会的差別の被害者となることが多かった。NGOの報告によると、大都市圏以外での差別は依然として広範囲に及んだ。
差別に対する法的な保護措置にもかかわらず、大勢の韓国・朝鮮人、中国人、ブラジル人、およびフィリピン人の永住者は、その多くは日本で生まれ、育ち、教育を受けているにもかかわらず、住居、教育、および雇用の機会の制限など、さまざまな形で、深く根付いた社会的差別の対象となった。日本国民の間 で、「外国人」(その多くは日本で生まれた民族に基づくマイノリティー)が犯罪のほとんどを起こしているとの認識が広がっていた。法務省の統計によると、 不法入国および不法滞在を除外すると、「外国人」の犯罪率は日本国民の犯罪率よりはるかに低いにもかかわらず、マスコミがこのような認識を助長した。
多くの移住者は、帰化を阻む障害の克服に苦労した。そうした障害には、審査を行う担当官に広範な自由裁量が認められていること、日本語の能力が極めて重視されることなどがある。日本に5年間継続して居住した外国人は、帰化および国籍取得の申請資格を与えられる。また、帰化手続きには厳しい身元調査 が必要であり、申請者の経済状態や社会への適応状況なども調査される。日本政府は、この帰化手続きは、外国人が社会にスムーズに同化できるようにするために必要なものであると主張した。
先住民
アイヌは、他のすべての国民と同じ権利を享受したが、明らかにアイヌであると識別されると、他の民族に基づくマイノリティーと同様の差別を受けた。6月6日に、国会は全会一致で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」を採択した。
その他の社会的虐待および差別
ゲイ、レズビアン、バイセクシュアル、およびトランスジェンダーの人々を擁護するNGOは、そのような人々がいじめ、嫌がらせ、および暴力行為によって苦しめられていると指摘した。
性的指向に基づく、あるいはHIV・エイズ感染者に対する社会的暴力や差別の報告はなかった。
第6部 労働者の権利
a. 結社の自由
法律は、労働者が事前認可あるいは過度の要件なしに、組合を結成し、自分が選んだ組合に所属することを認めており、日本政府は同法を効果的に執行した。労働組合は、政府の統制や影響を受けなかった。しかし、これとは別の法律により、公務員の基本的な労働組合権は制約されており、組合結成には 「事前認可が実質的には要求されている」。2006年には、全国の労働人口のおよそ18%が労働組合に所属していた。
民間部門の組合にはストライキをする権利があり、労働者は実際にこの権利を行使した。公共部門の職員にはストライキをする権利がない。
b. 団結権と団体交渉権
公務員および公共企業体の従業員を除き、法律により、労働組合は干渉されることなく活動することが認められており、日本政府はこの権利を保護した。団体交渉権は法律により保護されており、自由に行使された。
日本には輸出加工区はない。
c. 強制労働の禁止
法律により強制労働は禁止されており、これは子どもにも適用される。しかしながら、そのような強制労働が行われたという報告が複数あった。労働者の権利を擁護するNGOの申し立てによると、一部の企業は外国人労働者を違法に残業させ、手当てを払わず、渡航書類を取り上げて移動を制限し、給料を企業が管理する銀行口座に強制的に入金させた。日本の法律や法務省のガイドラインでは、こういった慣行を禁止している。
d. 児童就労の禁止と雇用の最低年齢制限
法律により職場における子どもの搾取は禁止されており、日本政府は法律を効果的に執行した。法執行の責任は厚生労働省にある。法律により、15歳から18歳の子どもは、危険な、あるいは有害と指定される仕事でなければ、いかなる仕事でも従事することができる。13歳から15歳までの子どもは「軽労働」であれば従事でき、13歳未満の子どもでも芸能界であれば働くことができる。人身売買および児童ポルノの被害者以外では、児童就労は問題にならなかった。
e. 許容される労働条件
最低賃金は、都道府県および産業別に、労働者、雇用者、および一般市民の3者から成る審議会に諮問した上で、設定される。最低賃金が適用される雇用者は、その最低賃金を表示しなければならない。最低賃金は広く順守されていると見なされた。都道府県により、最低賃金は、時給618円(約5.74ドル)から739円(約6.54ドル)まで幅があった。最低賃金の日給は、労働者とその家族がある程度の生活水準を維持するのに十分であった。
法律により、ほとんどの産業で労働時間は週40時間と規定されており、週40時間、または1日8時間を超えて働いた場合には、割増賃金を支払うことが義務付けられている。しかし、公務員を含め労働者が、日常的に、法律で定められた労働時間を超えて働いていたことは、国民の広く認めるところであった。労働組合は、政府が労働時間制限の執行を怠っている、と批判することが多かった。2007年の厚生労働省統計によると、対象期間の2006年度に147人の労働者が過労死(働き過ぎによる死)した。
日本労働組合総連合会によると、労働者を非常勤として非正規で雇用する企業が増加している。そういった労働者は労働力の3分の1を占め、多くの場合、不安定な雇用条件に耐えて低賃金で働いた。派遣社員も同様の雇用条件に直面していると報告された。活動家団体は、日本語や日本における法的権利をほとんど、または全く知らないことが多い外国人を、雇用者が搾取していると申し立てた。
NGOやマスコミは、国際研修協力機構が監督する日本政府支援研修プログラムである外国人研修制度がしばしば悪用されている、と報告した。 一部の企業では、研修生が時間外手当無しで残業させられ、最低賃金未満の給料しかもらっていなかったという報告があった。さらに、強制預金は違法であるにもかかわらず、研修生の給料は企業が管理する銀行口座に自動的に入金された。労働者の権利を擁護するNGOによると、研修生は渡航書類を取り上げられ、逃亡しないように行動が制限される場合もあった。日本政府は外国人研修制度の見直しを行い、2007年12月に法務省は、同制度を管理するために禁止行為の一覧を発表した。しかし、決まりに違反した企業に対する刑事罰は規定されていない。2006年だけでも労働基準監督署が1209件を超える労働関連法違反を認定したにもかかわらず、過去2年間で労働目的の人身売買で有罪となったのはわずか2件であった。外国人労働者を支援するNGOと労働組合は、一部の企業の研修プログラムにおける外国人労働者の処遇は全く改善されていない、と指摘した。
政府が、労働安全・衛生基準を設定する。厚生労働省は、労働安全・衛生に関する各種の法律・規則を効果的に実施した。労働基準監督官は、安全でない操業を直ちに停止させる権限を有し、また法の規定に基づき、労働者は、雇用の継続を脅かされることなく、職業安全について懸念を表明し、安全ではない労働環境から離れることができる。


大使のスピーチ・寄稿