
*下記の日本語文書は参考のための仮翻訳で、正文は英文です。
2008年5月28日、横須賀
(草稿)
この特別な日にここに参列し、列席者の方々にごあいさつをする機会をいただいたことについて、ケリー少将ならびにクラウダー中将にお礼を申し上げます。また両国の同盟関係にとってこのように歴史的に重要な日に、木村外務副大臣、蒲谷横須賀市長、平井逗子市長、五百旗頭防衛大学校長、齋藤海将ならびに赤星海将と同席できることを光栄に思います。10年近くにわたり日本で目覚しい貢献をしてきたキティホークに、本日私たちは別れを告げます。キティホークの離日は両国の深い関係を象徴するものであり、年内に予定されている空母ジョージ・ワシントンの横須賀配備に向けての第1歩でもあります。
ノースカロライナ州キティホークでのライト兄弟による人類初飛行から53年後の1956年に、空母キティホークは起工されました。起工から52年近く経過した今、キティホークは、105年に及ぶ動力飛行の歴史のほぼ半分の期間にわたる任務を終え、退役の旅に出ようとしています。現役時代、キティホークは世界中の海と大陸を巡りました。
キティホークが就役したのは、冷戦が真っただ中にあった時代でした。1963年6月6日、ジョン・F・ケネディ大統領は、軍民の指導者と共にキティホークに乗艦し、カリフォルニア沖で行われた空母の機動部隊による武器の実演を視察しました。乗員への演説の中で、ケネディ大統領は、海を制することが戦争か平和かの分かれ目になり、最終的に勝利するかどうかが決まると述べました。後に大統領は、並外れた力を持つ空母と、世界中で自由を守るその能力に感銘を受けたと書いています。悲しいことに、同年11月にキティホークが佐世保に寄港したときには、ケネディ大統領暗殺を悼む半旗を掲げていました。
ベトナム戦争中には、キティホークは東南アジア全域で米軍を支援するという重要な役割を果たしました。戦後には、小型ボートに乗船して避難する港を探していた難民を助けました。
1980年代にキティホークは、冷戦中の最も奇妙な出来事のひとつに遭遇しました。それは日本海で軍事演習に参加していたときのことです。米軍の艦隊を追尾していたソ連の原子力潜水艦が、キティホークの下から浮上したのです。潜水艦もキティホークも損傷を受けました。潜水艦は自らの母港までえい航してもらう必要があり、一方キティホークはフィリピンのスービック湾に入り、船体にはまり込んだ潜水艦のスクリューを取り除きました。
1990年代には、キティホークはソマリアでの「希望回復作戦」、イラクでの「南方監視作戦」に参加しました。90年代末にキティホークは、北東アジアの平和を確保するという最も記憶に残る任務に向けて出航しました。キティホークは1998年8月に横須賀に入港しました。
以来キティホークは、日本での前方展開戦力となり、「世界的なテロとの戦い」および「イラクの自由作戦」では、不可欠な役割を果たしてきました。キティホークは、急速に変化する世界秩序において、強さと安定性の目に見えるシンボルとなってきました。キティホークは任務を終え、米国に帰還します。しかし、キティホークがアジアの平和および安全に果たしてきた貢献を考えれば、この空母が忘れられてしまうことは決してないでしょう。
今日母港から出航する米海軍の乗員たちは、思い入れある場所に別れを告げることになります。横須賀市は、キティホークがここでの任務に就いていた10年間、何万人もの乗員たちの母港にもなっていました。彼らの大多数は、親愛の情を込めて、ここでの任務を思い出すことでしょう。横須賀市民の皆さんには大変お世話になりました。皆さんの暖かい歓迎と偽りのない友情に感謝します。私たち皆、市民の皆さんが、キティホークとその横須賀配備時代を、日米同盟史の明るい1幕と考えてくだされは幸いに思います。
本日、私たちはキティホークに別れを告げます。けれども、ひとつのドアを閉じれば別のドアが開き、空母ジョージ・ワシントンが後継として配備されます。しかし、船の名称よりももっと重要なことは、ここまで来た同盟の強さです。敵意を抱いていた戦時から友好関係を築いた平和な時代を経て、私たちは、日米が結束するときに平和を維持する可能性が最も高まると理解するようになりました。これまで両国に大きく貢献してきた日米同盟を決して忘れることなく、ずっと大切にしていきましょう。
さようならキティホーク、ようこそジョージ・ワシントン。


大使のスピーチ・寄稿